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雑感3「ロマンティック・ラヴの狂信者」

ASD

 近年では、「ADHD」や「ASD」といった言葉も人口に膾炙し、徐々にではあるが発達障害に対する社会の理解も深まってきている。書店には発達障害に関する書物が山のように積まれ、SNSでは発達障害の日常を積極的に発信する者たちも増えてきている。
 さて、そのような世相に敏感な意識高い系左翼であるおれは、意識高い系左翼たるもの常に最新の状態へアップデートしておかねばならんということで、さっそくADHDとASDに関する簡単な概説書を手に取った。発達障害などおれとは無縁な事柄だが、これも意識を高め尊敬を集めるためだと思い、ASDに関する書物をひもとく。すると、一行目から唖然としてしまった。

 人と仲よくなりたいと思っても、自分から話しかけたり雑談を交わしたりするのが苦手という人が増えています。

岡田尊司著. 自閉スペクトラム症 「発達障害」最新の理解と治療革命. p3

 あ、おれのことかな。

 潔癖で、自分の決まったやり方やルールにこだわりがあり、いつも通りでないと不安に感じたり、不機嫌になったりする人もいます。

岡田尊司著. 自閉スペクトラム症 「発達障害」最新の理解と治療革命. p3

 おれやん。

 自分の興味や視点にとらわれ、相手の気持ちや都合に気づかなかったり、融通が利かなかったりすることも珍しくありません。

岡田尊司著. 自閉スペクトラム症 「発達障害」最新の理解と治療革命. p3

 おれやん……。

 極端な考えになりやすく、少しでも嫌だと思ったものは受けつけず、仕事や対人関係が長続きしないケースにもよく出合います。

岡田尊司著. 自閉スペクトラム症 「発達障害」最新の理解と治療革命. p3

 おれやん!!!!!!!!!

 ここに挙げた(中略)さまざまな特性には、一つの共通項があります。それは、自分以外、あるいは、自分が慣れたもの以外を受け入れられないということです。そうした特性を、精神医学的に表すのが、「自閉的」という用語です。(中略)そして、自閉的な傾向が強く、日常生活や社会生活に支障が出る状態が、「自閉スペクトラム症(ASD)」です。

岡田尊司著. 自閉スペクトラム症 「発達障害」最新の理解と治療革命. p4

 /(^o^)\ナンテコッタイ

 確かに、おれは人の名前が呼べないし、友達を自ら遊びに誘ったことはほとんどないし、ルーティン・ワークが大好きだし、環境の変化を極度に嫌うし、世間体など微塵も気にかけたことがないし、感情よりも事実を優先するし、0か100かの白黒思考に陥りやすいし……思い当たる節しかない。
 まあ、雑な自己診断でASDを自称するのは控えたほうがよいだろうが、ここで重要なのは、人にはそれぞれ生まれ持った特性があるということである。
 おれの場合は、とりわけ「考え方が極端」「こだわりが強い」「融通が利かない」といった特性が強いらしい。この特性を用いれば、今まで「人格」なるものに帰責していた、我が人生における奇妙な言動の数々の原因も、新たな視座から容易に説明することができるだろう。

 例えば、小学生時代のおれは、国歌斉唱を拒否する護憲平和左翼の反天皇主義者だった。というのも、我が母校には『はだしのゲン』が置いてあり、劇中で中岡元が、
「天皇は戦争犯罪者じゃ!!!」
 と言っていたからである。0か100かでしか思考できない極端人間であるおれは、こういったものにクソ真面目に影響を受ける。そして影響を受けたからには、きちんと実践しなければならないと考える。こうしておれは、
「天皇は戦争犯罪者じゃ!!!」
 と心の中で念じながら、国歌斉唱を拒否し続ける小学生時代を過ごした。

 例えば、中学生時代のおれは、人類は即刻文明社会を放棄し、狩猟採集社会へと回帰すべきだと考えるエコ・テロリストだった。というのも、当時は空前のエコ・ブームで、環境問題がメディアで盛んに取り沙汰されていたからである。そして学校では、
「みなさんは、地球環境のためになにができますか?」
「電気をこまめに消しま~す(*^_^*)」
 などという、平和ボケした授業が行われていたわけだが、0か100かでしか思考できない極端人間であるおれは、もちろんこのような生ぬるい考え方はしない。
「人類は狩猟採集社会へ回帰するか、さもなくば地球環境のために絶滅すべきです!」
 という作文を書き、クラスの前で発表した。
「うーん、先生は技術革新でCO2を削減するとかして、持続可能な社会を構築できると思うけどなあ」
 という至極当然のツッコミを食らったが、おれには理解できなかった。地球が破壊されるか、文明を放棄するか、選択肢は二つに一つである。便利な生活を享受したうえで、地球環境も維持しようなど、傲慢な人間中心主義のたわごとだ。人類よ、悔い改めよ!

 ……さて、ここからが本題である。このように「考え方が極端」「こだわりが強い」「融通が利かない」といった特性を持ち、物事をなあなあで済ますことができず、正しいと信じ込んだことをエクストリームに追求するような人間が、理想的な恋愛を描いたロマンティック・ラヴの物語と邂逅すると、一体どのようなことが起こるか。
 そう、ロマンティック・ラヴの狂信者の爆誕である。

ロマンティック・ラヴ

 ロマンティック・ラヴを語るためには、十二世紀の宮廷風恋愛から十九世紀のロマン主義に至るまでの歴史を概括すると同時に、産業革命による経済システムの変化がもたらした結婚制度の変容についても言及する必要があると思うが、もちろん、人文系に関しては高卒以下の知識しかない理系のおれに、そのようなことを説明できるだけの教養はない。
 学問を参照できない無教養な者に残されているのは、己の経験を語ることのみである。そこで本クソ記事では、実際におれが思春期にメディアで触れていた作品に描かれていたような恋愛物語を、ロマンティック・ラヴの典型の一つとして取り上げる。つまりは、

「ち、遅刻遅刻ぅ~!」

ドカン!

「い、いったぁ~! ちょっと、どこ見て歩いてんのよ!」
「お、お前こそ!」
「あ、遅れちゃう! 急がなきゃ! ふん、イヤな奴!」

キーンコーンカーンコーン

「席につけ~、今日は転校生を紹介するぞ~」
「ああ、素敵な王子様みたいな人だといいなあ~」
「初めまして、ウンコ高校から転校してきたチンポコ太郎です」
「あ、アンタは今朝の!」
「あ、オマエは今朝の!」
「なんだ、お前ら知り合いなのか。じゃ、チンポコ太郎の席はヴァギ奈の横だな」
「うっげ~! 最悪ぅ~!」

(中略)

「お前のことが好きなんだ!」
「でも、あたしって可愛くないし、すぐ暴力を振るうし……」
「そんなお前のすべてが好きなんだ!」
「チ、チンポコ太郎!」
「ヴァギ奈!」

こうして二人は末永く幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし

~完~

 ということである。まあ、本来のロマンティック・ラヴは、身分違いの許されざる恋に落ちた二人が、すべてを投げ打って駆け落ちしたのち、死によって永遠の愛を成就する……といったような反社会的なもので、ここで例に挙げたのは毒を抜かれた無害なラブコメに過ぎない。それに、おれが本当に影響を受けたのはラブコメではなくセカイ系である。しかし、実際問題として死んでしまっては元も子もないし、己の愛の選択が世界の命運を左右するような機会が訪れる可能性はまずないので、実践としてはラブコメくらいが現実的だろう。いずれにせよ、次のような規範さえ抽出できればそれでよい。

「運命の人と運命の出会いを果たし、あなたは私の世界のすべてであるとして、永遠の愛を捧げる」

 これこそが理想的な恋愛の形であると、アニメや漫画を通じておれは感得した。そして高校生になる頃には、「君のためなら死ねる」ような愛を求道し、それ以外のものは一切が無価値であると信ずるロマンティック・ラヴの狂信者となった。

 もちろん、ロマンティック・ラヴなどというものは、西洋のローカルな文化が生み出した絵空事に過ぎない。心の奥底ではそのような恋愛に憧れていたとしても、現実とのギャップに失望を繰り返し、このままでは婚期を逃してしまうというので、適当な相手を見繕って結婚したという者も多くいるだろう。
 もしくは、おセックス様なんざ生まれてから一度もしたことねえよ、こちとら童貞様じゃ、おセックス様ができるだけでも有難いと思え殺すぞ死ね、というのが現実である。
 だが、たとえ絵空事であったとしても、狂信者はロマンティック・ラヴを絶対に諦めない。なぜなら、狂信者だからである。運命の人と出会い、永遠の愛を捧げることができないのであれば、この世界に生きる価値などない。生きる価値がないのであれば、潔く死ぬだけである。
 それではさっそく、ロマンティック・ラヴに毒された頭のおかしい狂信者の脳内を覗いてみるとしよう。

1.ロマンティック・ラヴの狂信者は結婚願望を持たない

 ロマンティック・ラヴの狂信者にとって、結婚願望などというものは意味不明である。
「え、恋愛に憧れている人ほど結婚願望が強いものじゃないの?」
 と思われるかもしれないが、それはなんとなくロマンティック・ラヴに憧れている一般信者の話だ。ここでは狂信者の話をしている。
 繰り返しになるが、ロマンティック・ラヴの究極の目的とは、運命の人と出会い、永遠の愛を捧げることである。それに対し、結婚とはなにか。ただの制度である。たかが制度ごときが、願望の対象になどなり得るはずがない。
 通俗的なロマンティック・ラヴを描いた作品では、主人公たちの愛が成就し、結婚をクライマックスとしてハッピー・エンドとなることも多いが、別に彼ら/彼女らは結婚自体を目的としているわけではない。この場合、結婚は単なる「愛の証」であるに過ぎず、愛する人と幸せな暮らしを送ることこそが目的のはずである。
 永遠の愛を捧げられるような、運命の人と出会った。そして死が二人を分かつまで、手を取り合って生きていゆきたいと願っている。狂信者からすれば、愛に関してはこれだけで充分であり、そこに国家の制度が介在する余地はない。もはや結婚制度には、国家から正式にパートナーとして認定され、優遇措置を受けることができる制度という以上の意味はなく、必要と思えば利用するし、思わなければ利用しないというだけの、単なるオプションに過ぎない。あくまで、愛の結果として結婚がありうるというだけで、結婚それ自体を目的にするなどバカげている。
 ところが、日本では結婚それ自体を目的として設定している人が多いようで、結婚のために恋愛相手を探すという本末転倒な営みが平然と行われている。狂信者からすれば、なぜそこまでして「結婚」がしたいのか、まったく摩訶不思議である。
 どうやら多くの人々は、
「生殖のためには結婚が必要で、結婚のためには恋愛が必要で、そのためにはタイムリミットがあって……」
 という考えを植え付けられており、その強迫観念に駆られて結婚を希求している、ということらしい。知らんけど。
 確かに、とりあえず結婚しさえすれば「売れ残りにならない」という目的を達成することはできるだろう。「一夫一婦制の中で子を授かる」という目的を達成することも可能だろう。だが、肝心の「幸福に生きる」という人生最大の目的はどこへ行ってしまったのか。目的のための手段として打算で選んだその相手は、本当にあなたを幸せにしてくれるような人間なのだろうか。
「まあ、このくらいで手を打っておくか……」
 という程度にしか思っていない人間に、一度きりしかない人生を捧げようとするなど、正気の沙汰とは思えない。「売れ残りになる」という不幸を回避するために、結局のところ不幸な結婚生活を送ることになってしまうのがオチだろう。
 幸福に生きること自体を人生の目的としていれば、
「あなたは世界のすべてだ! あなたの代わりなんてこの世にはいない!」
 と思えないような相手と結婚するなど、ありえないはずである。
 結婚は人生の目的でもなければ、ゴールでもない。人生のゴールは死だけだ。ただ在るのは、死ぬまで続く人生だけである。その死ぬまで続く人生の中で、一緒にいたいと思える人がいるから、一緒にいる。ただそれだけだろう。人と人とを繋ぎとめるのは「一緒にいたい」という思いだけであり、それ以外の理屈はない。

2.ロマンティック・ラヴの狂信者は恋人を欲しない

 「結婚がしたい」という願望が理解できないのと同じ理由で、ロマンティック・ラヴの狂信者は「彼氏がほしい」「彼女がほしい」といった願望が理解できない。実際、思春期を迎えた同級生たちが「ああ、彼女が欲しい!」と言い始めたとき、この「彼女が欲しい」というのが、おれにはまったく意味不明であった。
 「素敵な出会いが欲しい」なら分かる。おれも素敵な出会いが欲しいと思っていた。「3年ウンコ組のチンポさんと付き合いたい」も分かる。恋した人と相思相愛になることができれば、これ以上の喜びはないだろう。
 だが、「彼女が欲しい」とはなんだ。「彼女」なる抽象概念は、実体としてこの宇宙には存在しない。人間は具体的な存在である。「彼氏/彼女」という言葉は、具体的な人間との関わりの中で、好きな人ができ、相思相愛になった結果として生まれる関係を表す名称に過ぎない。にも関わらず、彼女を作ること自体を目的に設定し、そのために適当な人間を探すというのは、結婚のために適当な人間を探すのと同様、本末転倒だろう。
 また、「彼女が欲しい」という言説には、どうやら「彼女持ち」というステータスを獲得することにより、自尊心を満たしたいという欲求や、独り身である寂しさを埋め合わせたいという欲求や、単におセックス様がしたいという欲求などが含まれているようである。別に、そのような欲求があっても構わないと思うが、永遠の愛にしか興味がない狂信者にとっては、心底どうでもよいことである。ただ、運命の恋に落ちる瞬間を待ち焦がれるだけだ。

3.ロマンティック・ラヴの狂信者は童貞を捨てない

 二次性徴が始まり、性器に陰毛が生え始め、ついに射精能力を身に着けると、男どもは「早く童貞を捨ててえ!」などと言い出すものである。だが、ロマンティック・ラヴの狂信者にとっては、やはりこれも意味不明な言説である。
 「おセックス様がしたい」という生理的な欲求であれば、理解できる。腹が減れば飯が食いたくなり、夜になれば眠たくなるのと同様、性欲が溜まればおセックス様がしたくなるのは、まあ自然な欲求と言える。だが、「童貞を捨てたい」というのは、単なる性欲とは次元を異にする、社会的な文脈が絡んだ欲望であり、自然に発生するものではない。このような欲望が発生するためには、その社会的な文脈とやらを内面化している必要がある。
 どうやら「童貞を捨てたい」という欲望を持つ者たちは、社会には、
「非童貞=女をモノにできる優れた男」
「童貞=女をモノにできない恥ずかしい男」
 という「優位/劣位」の二項対立があると考えているようである。そして、童貞という劣位に置かれた存在から、非童貞という優位な存在へと移行することで、自尊心を満たしたいというのが、この「童貞を捨てたい」という言説の意味するところであるらしい。知らんけど。
 ならば当然、狂信者にそのような欲望が発生するはずもない。なぜなら、狂信者にある唯一の欲望は、運命の人に永遠の愛を捧げることだけだからである。周囲からどう思われようが知ったことではないし、童貞だろうが非童貞だろうが、永遠の愛に到達することができないのであれば同じ穴の狢であり、同等に価値がない。
 また、狂信者は単なるおセックス様には興味がない。狂信者にとっておセックス様は、永遠の愛が成就し、二人の愛が絶頂で溶け合うことでようやく到達できる至高の享楽としてあり、宇宙の神秘と接続する行為と見なされている。オーガズムに達して射精するだけのおセックス様には価値を見出せず、その程度の快楽であれば自慰で代替可能であると考える。
 おわり……と言いたいところだが、一つ釘を刺しておかねばならないことがある。ここまで述べたのは、単に童貞を捨てることを目的としたおセックス様はしないという個人的な美学であり、
「人は結婚まで純潔を守るべきだ」
「愛のないおセックス様をしてはいけない」
 といった教条などでは決してない。個人的な美学からそうしているだけの話で、人は己の信じる価値観に従って、それぞれ好きに生きればよい。
 だが、そのあたりを弁えず、他者へも「純潔」であることを要求して憚らない生き物がこの世には存在する。処女厨である。彼らは、尊厳ある人間を所有物かなにかと勘違いしているのか、「新品」や「中古」といった薄汚い言葉を使って恥じない虫けらである。それでいて、おれたちは世間の汚れた俗物どもとは違って、繊細で純粋な人間だと思い込んでいるのだから、始末に負えない。
 処女厨とは、とどのつまり自己中心的で他者を愛する能力のない、ただの嫉妬深い憐れな虫けらであり、ロマンティック・ラヴとはなんの関係もない。

4.ロマンティック・ラヴの狂信者に好きなタイプはない

 「好きなタイプは?」という定番の質問がある。意味不明である。
 この「好きなタイプ」というのが、単なる性的な嗜好を指すのであれば、意味は分かる。「細身が好き」「ぽっちゃりが好き」「塩顔が好き」「ソース顔が好き」など、人にはそれぞれ嗜好というものがある。また、漫画やアニメの話をしているのであれば、「ツンデレキャラが好き」「幼馴染キャラが好き」といったように、キャラをタイプ別に分類して、それに対する嗜好を答えることもできるだろう。
 だが、実際にどのようなタイプの人間を好きになるかということが訊きたいのであれば、意味不明である。人が誰かを好きになるのは、必ずしもその人が「好きなタイプ」に合致しているからではない。最初は気にもかけていなかったはずの人間が、交際を続けていくうちに次第に気になり始め、ついには、
「あ、もしかして……好きかも……」
 と相手に恋愛感情を抱くに至るなんてことは、日常茶飯事である。そして想いが成就した暁には、
「初めて会ったときには、まさか付き合うことになるなんて思いもしなかったね」
 と二人、微笑み合うのである。
 このように、恋愛感情とは具体的な関係性の中から偶発的に発生するものであり、誰を好きになるかなど実際に出会ってみるまでは分からず、事前に想定できるものではない。このような不確定性こそ、恋愛の醍醐味であろう。
 また、「好きなタイプ」だから好きだというだけでは、好きな人がその人である必然性はなくなってしまう。「好きなタイプ」や「結婚の条件」に合致する人間などこの世にいくらでもいるのだから、別にその人である必要はないし、それは同タイプの上位互換が現れれば、さっさと乗り換えてしまうか、もう少し待てばよかったと後悔してしまうような「好き」でしかない。これは狂信者の求める「あなたは世界のすべて」という愛からは程遠い。
 誰かがかけがえのない存在であることを裏打ちできるのは、その人と積み重ねてきた関係性だけである。仮に「好きなタイプ」をきっかけに人を好きになったとしても、そんなものは次第に重要ではなくなってくる。最初は「好きなタイプ」という類型に過ぎなかった人間も、関係を積み重ねてゆくにつれ、「好きなタイプ」などには還元できない具体的な存在として立ち現れてくる。そのような具体的な存在と固有の関係性を築いてゆくことによって初めて、その人は「あなたでなければダメなんだ」という唯一無二のかけがえのない存在となる。
 まあ、この程度のことは、狂信者でなくとも多くの者が経験的に理解していることだろう。事前に心の中に描いていた「好きなタイプ」とは異なる人と思わぬ恋に落ち、パートナーとして幸せに暮らしている例など、周囲を見渡せばいくらでも見つかる。
 ところが、近年ではそうも言えない状況になってきている。次節でも取り上げるマッチング・アプリの隆盛である。マッチング・アプリでは、利用者は「容姿」「年齢」「学歴」「年収」「体型」「性格」「趣味」などの条件や属性によってカタログ化されており、そこから「好きなタイプ」の人間をピックアップすることになる。百聞は一見に如かず、実際にマッチング・アプリをインストールして確認してみたが、そこに広がっていたのは、人間が商品カタログへと、単なるデータの集積へと貶められた、単なる市場であった。
 このように「スペック」によって人間がカタログ化され、具体性を喪失した空間では、利用者たちは「お買い得商品」を漁る消費者として、自らが「お買い得商品」であることをアッピールする販売業者として、振舞うよう強いられる。こうして、「好きなタイプ」や「結婚の条件」を満たす優良物件を物色し始めるわけだが、求めるタイプや条件を満たす人間など探せばいくらでもいるし(もしくは一人もいないし)、「もっとお買い得の商品があるかもしれない」という期待を持ち続けることになるので、そこには「あなたでなければダメなんだ」という唯一性などなく、人間は取り換え可能な商品へと貶められてしまう。
 もちろん、マッチングに成功すれば実際に具体的な存在と対面することになるので、そこで「好きなタイプ」などには還元できない相手の魅力に気づき、固有の関係性を築いていった結果、「あなたでなければダメなんだ」という唯一性の確信へと至ることは可能である。そうして幸せに暮らしている者も多くいるだろう。
 だが、「お買い得商品を確保したぞ」という程度の気持ちで結婚でもしようものなら、待っているのは「幸せなゴール」などではなく、損得勘定のみで繋がった貧しい人間関係がもたらす地獄の生活であろう。また、マッチング市場から抜け出すことができなければ、他者のみならず自己をも「スペック」が記載された商品として貶め続け、赤の他人との不信をベースとしたコミュニケーションに晒され続けることになるので、人間としての尊厳はジリジリと削られてゆくことになる。
 マッチング・アプリを楽しめているのであればよいが、もしマッチング・アプリによって精神が荒廃し、病み始めているのであれば、本当にそこまでして「恋活・婚活」がしたいのか、一度考え直したほうがよいだろう。

5.ロマンティック・ラヴの狂信者はマッチング・アプリを使わない

 これまで説明したように、ロマンティック・ラヴの狂信者は、結婚したいという願望も、恋人が欲しいという願望も、単なるおセックス様がしたいという願望もなく、「スペック」によって人を判断することもないので、当然ながらマッチング・アプリを使うことはない。マッチング・アプリを使うくらいなら、死んだほうがマシである。
 近年のマッチング・アプリ関連の情報には、本当に驚かされることが多い。ここ最近で特に驚いたのは、「AI婚活」というものである。曰く、AIが利用者のプロフィールや行動パターンを解析し、相性のよさそうな人間を自動的に選出してくれる……らしい。まさか、アニメ『PSYCHO-PASS』で描かれていたようなディストピアが、すでに現実のものとなろうとしていたとは、思いもよらなかった。
 利点としては、自分から努力して相手を選ぶ必要がなく、AIが勝手に相手を選んでくれるので効率がいい、要は「コスパ」がいいということなのだが、恋愛にまでコスパが持ち込まれる時代になったとは、世も末である。ある大手のマッチング・サービスなどは、「運命よりも確実な恋活・婚活」をキャッチフレーズとして謳っており、開いた口が塞がらない。
 それでいて、
「うちは出会い系アプリのような不純なものとは違います。真剣に恋活・婚活がしたい人にオススメです!」
 などと喧伝しているのだから、噴飯ものである。このような煽り文句を真に受けて、コスパのいい恋活・婚活をすることが「真剣」だと勘違いしているような輩こそ不純であり、「遊び目的」だと割り切って出会い系アプリを利用している者のほうが、よほど純粋だろう。
 そもそも、恋愛とはコスパの悪いものである。そう簡単に素敵な人に巡り会えるわけではないし、巡り会えたとしても付き合えるとは限らない。付き合えたとしても、それでハッピー・エンドではなく、関係を維持するためには不断の努力が必要となる。それでも上手くいくことのほうが稀で、出会いと別れを繰り返し、期待外れの連続に失望してしまうだろう。失恋すれば深い傷を負うし、それで人生が滅茶苦茶になってしまう者もいれば、最悪の場合には死ぬ者だっている。恋愛はコスパだけで言えば最低のものである。
 しかし、コスパが悪いということは、価値がないということではない。コスト・パフォーマンスとは、単に得られる価値をコストで乗算したものに過ぎないのだから、当たり前だ。この世には、多大なコストをかけなければ得られない価値というものが存在する。
 コスパが最低だろうと、恋愛に踏み出す者が後を絶たないのは、彼ら/彼女らにとって、好きな人と思いが通じ合ったときの感動は、愛する人と共に暮らす幸せは、この世の何物にも代えがたいからであり、そこに人生を賭けるだけの価値を見出すからである。コスパが最低だからこそ、恋愛にはコミットする価値がある。
 もちろん、恋愛は人生において必須ではない。恋愛以外のものにより多くの価値を見出し、恋愛なしで人生を謳歌している者も一定数いるだろう。恋愛の有無が問題なのではない。唯一の問題は、死にゆく間際に、
「わが生涯に一片の悔いなし」
 という一言が吐けるような人生を送れているか否かだけである。その一言を吐ける自信があるのであれば、「コスパ最高!」な人生を送るのも悪くないだろう。

6.ロマンティック・ラヴの狂信者は恋愛感情を信じない

 ロマンティック・ラヴを信奉している人というと、とにかく惚れっぽく、恋をすれば後先考えずに猪突猛進するようなイメージがあるかもしれないが、これも一般信者の話である。狂信者たちは、ロマンティック・ラヴを完遂するためには、己の恋愛感情こそが最大の敵であることを重々承知している。
 これには二つ理由がある。まず一つは、恋愛感情などというものは所詮、生理的な欲求に過ぎず、愛すべきではない人に恋をしてしまう可能性が充分にあるからである。
 恋愛感情が疑うべきものであるということは、アニメや漫画でも描かれることが多い。物語の冒頭で隣国のイケメン王子に恋をするも、物語の中盤で実はそいつがクソ野郎だったことが判明し、最終的に身近にいたガサツだが実直な男こそが運命の相手であったことに気づく……などというのは、定番のお話である。
 このように、恋愛感情は意志することのできない単なる生理的な欲求に過ぎないので、クソ野郎を運命の相手と勘違いしてしまうということも充分に起こり得る。また、この世には結婚詐欺師が存在することからも分かるように、恋愛感情などというものは、条件を整えてツボを刺激してやりさえすれば、人為的に発生させられるようなものでしかない。友達の少ない根暗オタクなどは、話しかけられただけで恋に落ちてしまう危険生物であることで有名である……おれのことだが。
 このように、デタラメに発生する恋愛感情をいちいち本気にしていては、運命の相手を見逃してしまう可能性が高い。そこで狂信者たちは、これぞ運命の恋だという確信が持てない限り、恋愛感情には懐疑の目を向けるようにしている。
 二つ目の理由は、やはり恋愛感情などというものは所詮、生理的な欲求に過ぎず、情熱的な恋が永続するなどということはあり得ないからである。
「生物学的に見れば、人間の愛は四年で終わるのが自然である」
 という説を唱えた書籍が、三十年前に話題となった。曰く、人間は子どもを共同で扶養する必要がある四年だけ愛が続くように進化した。四年が過ぎれば愛が終わり、また新しいパートナーを探し始め、また四年で別れてを繰り返す。このように、逐次的な一夫一婦制が人間にとっては自然であり、生涯に数人のパートナーとつがうこととなる。
 この説にどれだけの信憑性があるのかは知らないが、現象自体は経験的に広く理解されていることである。そもそも、「愛」「性」「結婚」という互いに無関係だったものを、たった一人の相手ですべて実現しようというロマンティック・ラヴの企てには無理がある。永遠の愛を捧げ、一生を添い遂げるのが理想だというのは、あくまで西洋のローカルな文化に過ぎず、遺伝子さんからすれば知ったことではない。遺伝子さんとしては、できるだけ多くの人間とつがい、多様な人間を多量に生み出してくれたほうがありがたいので、目と目が合うだけで燃え上がっていた恋の情熱も、
「そろそろ違う人間とつがってくれへんか」
 という遺伝子さんの命令により、いずれは醒まされてしまう。
 よって、生理的な恋の情熱だけに依拠した関係では、破局する運命からは逃れられず、永遠の愛を達成することはできない。そこで必要となるのは、生理的な恋の情熱に依拠した関係から、親密な愛に依拠した関係へのシフトであろう。手と手を繋げば胸が高鳴る関係から、手と手を繋げば心が落ち着き幸福感に満たされる関係へ。抱き合えば情熱の炎に包まれる関係から、抱き合えば「おれには大切な居場所があるのだ」と安心できる関係へ。
 とはいえ、生理的な恋の情熱への欲求が消え去ってしまうわけではない。
「もうキュンキュンするようなことはないけど、愛し合っているから満足だよ」
 と語る既婚カップルは多いが、人間はそのような関係に安住できるような存在ではない。セックスレスとなり、こんなトキメキのない人生でよいのだろうかという疑問がもたげてくれば、人は日常的な家族愛を存続させるための非日常的な不倫へと駆り立てられるだろう。それを避けたいのであれば、定期的に特別なデートをセッティングするなど、情熱的な恋人時代に回帰できるような取り組みが必要となってくる。
 このようなことを書くと、恋愛の神秘を冒瀆されたように感じるかもしれない。だが、ゲノム的にそうなっているのだから仕方がない。性的に束縛のないパートナーシップを築くという複数愛的な解決方法もあるし、ゲノムに従いパートナーを取り換えながら逐次的な恋を楽しむ生き方もあるが、ロマンティック・ラヴのような永続的な単数愛を志向するのであれば、このゲノム的な問題は避けて通れない。
 かといって、
「愛なんて所詮、こんなもんだろ」
 という単純なニヒリズムに陥るのは危険である。それでは生きる意味を見失い、充実した人生を送ることができなくなってしまう。
 恋愛を人生を賭ける価値があるものとして称揚したいのか、所詮は生理的な欲求に過ぎないものとして貶めたいのか、どちらか分からず困惑されるかもしれないが、これはどちらも真実である。重要なのは、単純なニヒリズムにも、単純なロマンティシズムにも陥ることなく、徹底的なリアリズムにより、徹底的なロマンティストを目指すことである。

7.ロマンティック・ラヴの狂信者は愛によって世界を肯定する

 人生に意味はない。この宇宙は、単なる素粒子やエネルギーの集合であり、それ以上の意味はない。人間とは、とどのつまり水や炭素の塊であり、喜びも悲しみも、ただの脳内環境の変化に過ぎない。人間は意味もなく生まれ、意味もなく生きて、意味もなく死ぬ。
 そう考えると、すべてが虚しくなってくる。食って、寝て、排泄してを繰り返し、老いさらばえ、いつかは死ぬ。おれが生きていたという事実も、そのうち誰の記憶からも消えてしまう。
 だからこそ、人は歴史に名を残そうとする。だが、おれに歴史に名を残せるような才能など特にない。ならばいっそ、通りに出て包丁を振り回し、犯罪者という形でもいいから歴史に名を残したいという思いに駆られる。だが、歴史に名を残せたところで、別に意味はない。
 昔は人生には意味があった。神様を信じて天国へ行くとか。だが、ニーチェという空気の読めない男が、
「神は死んだ」
 と空気の読めないことを言ったので、神は死んでしまった。脱魔術化された現代にあっては、特に無宗教な日本にあっては、今さら神を信じることなどできやしないし、おれには自ら人生の意味を創造できるような強さもない。
 良い大学に行って、良い企業に就職して、タワマン住みの「勝ち組」になったからといって、それがなんだというのか。そんなものに意味などない。
 生きることに意味はないので、バケツに乗り、ロープに首をかける。あとはバケツを蹴り、重力が頸動脈の締め上げてくれるのに任せるだけで、すべてが終わる。生き延びるための術を記憶から探ろうと、走馬灯が脳内を駆け巡る。
 あな、懐かや
 ほな、さいなら
 と、台座を蹴ろうとした瞬間、あなたの顔が思い浮かぶ。そうだ、この世界には、あなたがいる。
 おれが死ねば、あなたは悲しむだろう。悲しむといっても、それは単なる脳内環境の変化であり、浮遊する素粒子たちの乱舞に過ぎない。意味はない。意味はないが、あなたが悲しむ姿は見たくないと思う。できれば、笑っていてほしいと思う。その笑いも、単なる脳内環境の変化なので、やはり意味はない。意味はないが、意味などどうでもいい。あなたが幸せでいてくれるのであれば、人生の意味など、おウンコ召し上がれだ。
 世界は素粒子の乱舞に過ぎないという事実は、あなたの前では無力だ。おれの人生に意味はないが、あなたの人生には意味がある。あなたの価値を否定する存在を、あなたを不幸にする存在を、おれは絶対に認めない。あなたが死ぬ間際、
「生まれてきてよかった。幸せだったよ」
 と言ってくれるのならば、おれはたったその一言だけのために、おれの全人生をあなたに捧げよう。あなたを幸せにするためだけに、おれは生まれてきたのだから。それがおれの人生の意味なのだから。
 世界はクソである。なんの意味も与えられずこの世界に放り投げられたかと思えば、直面させられるのは、争いの絶えないクソ社会であり、不条理に人の命が奪われるクソ世界である。クソゲーにも程がある。だが、そんなクソ世界だからこそ、あなたという奇跡が生まれ、あなたという奇跡に出会うことができた。このクソ世界を否定してしまえば、あなたをも否定してしまうことになる。ああ、ならばおれは、あなたを肯定するために、このクソ世界を肯定せざるを得ないではないか。世界は、なんと素晴らしいのか。
 素粒子の乱舞に過ぎない無意味なこの世界を、あなたという奇跡が存在するという一点において、おれは全肯定する。

8.ロマンティック・ラヴの狂信者の愛は命懸けである

 ロマンティック・ラヴの狂信者には、一つ弱点がある。ロマンティック・ラヴとは「あなたは私の世界のすべてであるとして、永遠の愛を捧げる」ことであった。ということは論理的な帰結として、あなたを失うことになれば、狂信者は世界のすべてを失うことになってしまう。世界のすべてを失うということは、生きる意味を失ってしまうということである。
 当たり前だが、永遠の愛を捧げたからといって、その愛が永遠に続くとは限らない。単に失恋してしまうというケースから、愛する人が事故や病気で亡くなってしまうというケースまで様々であるが、いずれにせよ、いつかは別れというものがやってくる。さて、永遠の愛を失ってしまった狂信者は、今後どのようにして生きてゆけばよいのか。
 まあ、人間はタフなもので、別れによって深い悲しみを負ったとしても、時間が経つにつれ、傷は癒えてゆくものである。心の傷が癒えるまで生き延びることができれば、いつかは別れを受け入れ、また人生を歩み出すことができるだろう……というのが理想だが、狂信者にとってこれは困難を極める。
 「世界のすべて」であるあなたを失ったにもかかわらず、また楽しく生きられるようになってしまえば、あなたは「世界のすべて」ではなかったことになってしまうのではないか。それは永遠の愛などではなく、時間が経てば忘れられる程度の愛だったということになってしまうのではないか。
「いつか時間が解決してくれるよ」
 と友人が励ましてくれたが、そんなことは百も承知している。承知しているからこそ、あなたを忘れようとしている自分を、あなたなしでも生きることができるようになろうとしている自分を、どうしても許すことができない。この悲しみが癒えてしまい、あなたのことを忘れてしまうくらいなら、いっそ死んだほうがマシである……。
 狂信者たちは、概してこのような思考に陥ってしまう。そして、あなたは「世界のすべて」であったことを証明するために、傷が癒えることを拒み、永遠に悲しみ続けることを選択するか、もしくは、死によってあなたが「世界のすべて」であったことを証明しようとする。あなたを失ってしまえばすべてが終わりであり、悲しみから回復する術はない。
 となると、狂信者の生き方はギャンブル的な様相を呈してくる。永遠の愛を捧げた相手と、たまたま関係が長く続き、たまたま二人とも長生きして、たまたま相手の死を見届けてから数か月以内に死ぬことができれば万々歳だが、運命の針が少しでもそこから狂ってしまえば、狂信者を待ち受けているのは破滅である。
 ただ、これには一つだけ解決方法がある。最初から誰のことも愛さずに生きればよい。そうすれば、誰かを失う悲しみを味わう可能性はあらかじめ排除され、コスパ最高、安楽な人生を送ることができる。だがそれは、悲しみがない代わりに、大きな喜びもない味気ない人生である。狂信者はそのような人生に価値など認めることができない。
 ならば結局のところ、やるべきことは一つだけである。破滅を覚悟のうえで、今日も運命のサイコロを振るのだ。

9.ロマンティック・ラヴの狂信者は他者と出会うことができない

 さて、これまで長々とロマンティック・ラヴの狂信者の頭の中を覗いてきたが、いつまでも「運命の人」を待ち続けているわけにはいかない。いくら立派な恋愛論を語ったところで、実践が伴わなければただの机上の空論である。「結婚したい」「彼女が欲しい」「童貞を捨てたい」といった世俗的な欲望には拘らず、ただ「一緒にいたい」という想いのみに依拠した純粋な関係を築き上げたい、それによって生きがいを得たいということは、もう分かった。では実際、そのような考えを持つ狂信者に、理想的な恋愛を実践することはできるのであろうか。
 結論から言えば、このような独善的な幻想に支配されたクズ野郎に、まともな恋愛などできるわけがない。
 これまで、狂信者の人生の目的は、
「運命の人と運命の出会いを果たし、あなたは私の世界のすべてであるとして、永遠の愛を捧げる」
 ことであると述べてきた。そう、「目的」なのである。狂信者どもは、
「おれは結婚を目的とした手段としての恋愛なんてしない。世間の俗物どもとは違い、おれは打算の一切ない真実の愛を追求するのだ」
 などと、他者を手段として利用する恋愛を批判しているが、結局のところ自分自身も、
「ぼくのかんがえたさいきょうのれんあい」
 という幻想を埋め合わせること自体を目的化し、そのための手段として他者を利用しているに過ぎない。それでいて、あたかも己が殊勝な愛の求道者であるかの如くアッピールしているのだから、お笑い種である。
 このように化けの皮を剥いでやれば、今まで述べられてきたことはすべて、己を美化するための虚飾に過ぎなかったことが分かってくるだろう。1万字以上かけてダラダラと述べてきた狂信者の恋愛論も、ゴテゴテとしたレトリックを取り去ってやれば、以下のように320字で簡単に要約できる。

「人生に意味のないことが、僕にはとっても不安なんでちゅ。自ら人生の意味を創造しろと言われても、自分の才能を試すようなことは怖くてやりたくないでちゅ。だから僕は、心にぽっかり空いた穴を埋め合わせるために、ロマンティック・ラヴという幻想を作り上げまちた。理想的な女の子を見つけて、僕の幻想を補完するための部品として取り込むことで、ようやく僕の心は満たしゃれるのでちゅ。できれば二次元の女の子がいいのでちゅが、やっぱり実体のある三次元の女の子でなければ満足できまちぇん。あ、そこのチミ、僕の幻想の一部として一生を捧げましぇんか? 不純な恋愛をしている世間の俗物どもとは違って、僕は真実の愛を追求しているしゅごい人間なのでちゅよ。あばば、あばばばば」

 もちろん、このような赤ちゃん人間などお断りである。こいつは一体、人間をなんだと思っているのか。私は貴様の不安や幻想を埋め合わせるための道具ではない。
 とどのつまり、狂信者は他者になど興味はないのである。狂信者が愛しているのは、恋人自身ではなく、恋人を通じて想起される「真実の愛」のイデアであり、そのようなイデアに憧れる「繊細で純粋な僕」なのである。己のことにしか関心がないので、彼らはなにも与えてくれない。彼らが与えてくれるのは、我が幻想を満たす存在として正しく振舞えているかどうかの、監視と矯正だけである。
 また、「愛のないセックスはしない」「恋愛感情を信じない」という禁欲主義的な傾向に隠された薄暗い欲望にも注目する必要があるだろう。ニーチェが喝破しているように、禁欲主義者というのは、目の前の欲求を満たして得られる快楽よりも、禁欲主義的な態度を貫くことによって得られる権力を優先しているだけの存在に過ぎない。要するに、
「あの人は簡単に欲望に流される俗物とは違って、確固たる理性を持って主体的に行動できる立派な人だ」
 という評価を獲得することによって、ポジション取りがしたいだけなのである。仮に、周囲から評価されなかったとしても、
「打算的な恋愛をする連中とは違って、真実の愛を求めているおれは純粋なんだ」
 と思い込むことで、おれは崇高な人間であると認知的整合化を図ることができる。第3節でそのような処女厨を批判しているが、この狂信者とやらも実質的には処女厨と大差なく、その正体はただのルサンチマンの塊である。
 このように、己の不安と承認にしか関心がなく、己の幻想のために他者を利用して憚らない狂信者どもは、決定的に他者と出会うことができない。第4節で述べたように、「あなたでなければダメなんだ」という唯一性のある関係を築くための条件は、具体的な他者と出会い、関係を積み上げてゆくことであった。ならば当然、他者と出会うことができない狂信者どもにそのような関係が築けるはずもなく、彼らは自らの幻想によって自らの幻想を裏切り続けている。
 もしも彼らが「あなたでなければダメなんだ」という言葉を発したとしても、それは己の幻想を壊さないための単なる執着に過ぎないので、真に受けないほうがよいだろう。それはただの、
「こんな繊細で純粋な僕ちんのことを愛してください」
 という、赤ちゃんの泣き声である。

書を捨てよ、町へ出よう

「書を捨てよ、町へ出よう」
 という言葉がある。おれはこの言葉を目にするたびに、ホンマすんません、たまには外に出ますという気持ちになるのだが、これはあくまで家で本ばかり読んでいる人に向けた言葉であり、一般的に通用する格言ではない。逆に、町にばかり出ていて読書をする習慣がない人には、
「たまには家に籠って、本でも読みなさい」
 と言ってやるべきであろう。このように、与えるべき処方箋というのは人によって異なるのであり、これは恋愛についても同様である。
 結婚を「諦め」として捉えているくせに、結婚願望に駆られて結婚のための恋愛に勤しんでいる人に関しては、一度ロマンティック・ラヴの原点に立ち返り、どのような恋愛が自分の人生にとって幸せとなるのか、そもそも恋愛や結婚が自分の人生に必要なのか、じっくり考え直したほうがよいだろう。
 逆に、ロマンティック・ラヴに毒された頭のおかしい狂信者に関しては、まずは己の幻想と自意識を捨て去り、町へ出て他者と出会うところから始めなければならないだろう。そして他者と出会うことができて初めて、ようやく本当の愛は始まる。

おわり

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