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背中合わせのアイデンティティ

「桟橋」/牧田真有子
A面/女優が幕を引くとき
この物語に溢れる「赤」の描写は、私たちの日常の中に溢れる死を浮かび上がらせる。ビニール暖簾につく赤い血の跡、おばの身体から流れ出るおびただしい血。
一方で、「赤」は生をも暗示する。血小板は血を止め、赤い日記帳には生の記録が綴られている。
おばはそんな生と死に溢れるこの世界で、透明な存在。生と死の境界線の狭間を、ふわふわと浮かんでいるようなひとだ。それは、おばという身体の枠の中におばという確固たる人格がないからだろう。作品ごとに役の魂をいれるという特性的なものは、女優としては満点だろうが、人間として見ると空虚で掴みどころがない存在だ。中身のない身体は軽くて、きっとすぐに飛んでいってしまう。だからおばはどこにも定住しないし、おばと暮らしていたことをイチナの幼なじみは思い出せない。イチナはどこからどこまでがおばなのか分からない。纏っている服だって、透明なんじゃないか、と思えてしまうくらいに。
そんなおばが赤い服に身を包んで舞ったとき、おばが表現していたのはきっとおば自身だ。カーテンを縫っているとき、水仙を活けたとき、スナック菓子を食べているとき。母や妹という役になりきる必要がない相手と暮らす中で造られたおば自身のアイデンティティが、舞踊という作品で完全になった。役の魂なんて入る隙間はないくらいにぴったりと。赤色は、生きている『自分』であることの象徴だ。
きっと病室のベッドの上でおばはそれを理解して、“表現”しきれないことを悟ったのだと思う。そして女優の幕を引いた。実に鮮明に、美しく。

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B面/個性は模倣から始まる
イチナはまだ知らない、おばとイチナが本当は姉妹だという事実(そして、事実をおばは知っているけれどイチナは知らないという事実)は2人のポジションを非情に、そして圧倒的に引き裂く。イチナが無邪気に尋ねる「秘密」は、あまりに大きい岩のようなもので、動かせなくて、けれど受け入れるしかない運命のようなもの。おばはその運命からイチナの目を耳を塞いで、暖かい布団にくるんでしまいたいのだ。おばは「姉」として、イチナの母(実際はおばの母)に接してもらったようにイチナに接する。そこには確かに愛情があって、「血」の流れがある。そして、イチナの母はイチナを実の子のように育てている。おばも、イチナも、複雑な生い立ちではあるけれど、周りの愛情に包まれて今を生きている。(受け取っているかは別として)「血」とはただの血縁関係だけでなく、きっと与えられた愛の流れのことだ。
赤い日記帳におばの観察日記を書いていたイチナは、生の象徴として書かれている。人間関係の悩みで泣いて寝られなかったり、友達と電話したり、おばの舞台が見たいと駄々をこねてみたり、イチナは良くも悪くも、“普通の”高校生だ。そんなイチナが掴みどころがなくて、どこか死の匂いのするおばに惹かれるのはもっともなことだろう。ひとは、自分の中にはないものにどうしても手を伸ばしたくなってしまうものだから。(けれど、大抵手を伸ばしたときにはもう遅い。遅いから惹かれてしまうのかもしれない)イチナのおばへの憧れは物語中盤で最高潮になる。おばのような服を纏い、行っていた雑貨屋には行かなくなる。おばとイチナの境が、無くなっていく。
おばは舞台に家族が見に来ることを禁止していたけれど、本当に来てほしくなかったのはイチナだけだった。きっとこのことを1番危惧していたのだろうと私は思う。おばとイチナの境がなくなったら、2人の間に掛かっている橋が消えてしまう。2人がぴったりと一致してしまったら、どこまでもおばでどこまでもイチナになる。確固たる自分というものを持たない、私のようになってしまうとおばは恐れたのではないだろうか。けれど、個性は模倣から始まる。イチナはおばに憧れて模倣して、挫折することで、もう一度自分を愛していく。自分の目印である血が全身を満たしていくのを感じる。
この本の最後の文章は“彼女は来週十七の誕生日を迎える。”だ。イチナは自分の出生を知ってまた挫折を経験するだろうし、悩むだろう。周りの大人に対して腹が立って、おばと疎遠になるかもしれない。混乱して、悲しくて、どこかを求めて消えてしまうかも。けれど、イチナなら大丈夫だ、と思わせる何かを、このフレーズが閉じこめている。


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