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この頃の日常話


最近の僕はあまり古道具に触れていない、決して嫌いになったわけではなくただ古道具に触れていなかったのだ。食器に力を入れてからというもの、出勤時は必ずハイターや水につけていた食器たちをバットに移し乾かす作業と、ストック部屋にある入荷したての食器が入った箱の中から、宝石(食器)たちをとりだし洗い作業の準備をする。ほとんどこの繰り返しの毎日である。品出し状態になった商品は、他のスタッフが値付けやレイアウトをしてくれている。

全てに手を回そうしてしまうのが僕の悪いところでもあり良いところでもあるが、タスクにおいては連携を崩しかねない(実際に崩れることがよくある)。なので、大量の食器を捌くために「品出し」という一連の作業を極端に分け、①洗って販売状態にする日 ②値付けをし陳列(レイアウト)する日というのやり方で分けた。

タスクの種類は減るが、今度は同じ作業を大量に処理しなければいけない。それでも時短することができし手間は減る、ストックにも空きができるのでもう少し流れるような仕組みを作ることができれば、新しい商品をもっと入荷していろんな方に新商品をお見せすることができる良いルーティンをつくれそうだ。


ちなみに、普段店内にいると商品の変わり映えというのは食器をのせている什器を大きく動かして動線が変わった時や、一部何かのカテゴリーで縛って展開した時だ。でも実際に食器の販売数を一ヶ月で計算すると(ばらつきはあるが)合計で800枚以上のお皿が売れている。いまの広々としたレイアウトにしてからはこの800枚/月という数字も段々平均値になりつつあり、やり方によってはもっと伸ばすことも可能だろう。

食器が好きかどうかなどは一旦置いといて、あの裁判所や銀行や高いビルに囲まれた辺鄙な場所で「食器好き」な人たちが一定数お店に集まっていることがなんとなくシュールな感じで面白いし、嬉しい。


この食器たちは普段いろんな方たちが買取でお店に持ち込んでくれているものもあれば、僕が食器の沼にハマった状態で倉庫から好きなお皿やカトラリーを選んできたものたちが混在している。使い方もユニークなもので、「苔玉を置いたときに可愛いお皿が欲しい」とか「この印判皿を割って趣味の金継ぎに使いたい」とか。「料理を盛る」という当たり前の用途を頭の中から捨ててみると道具の道も一つではないことがわかる。僕はそういう方たちから、捉われてしまった固定概念を壊してもらい、新しい価値観を得ている。人を返せば返すほど、その道は何通りにも広がり繋がるのだ。




そんな感じで、しばらく僕の頭の中は「食器」というワードと同時並行で進めていたイベントの事でキャパシティスレスレを保っていたのだが、あまりに古道具に注力できていなかったせいで周りのスタッフが痺れを切らし、倉庫にたまっていた家具たちを搬入してレイアウトまでやってくれた。それがきっかけで、僕は古道具に改めて向き合うようになった。感謝しかないが、こういう時どう表現していいのかわからないのが僕のダメのところである。確実に身体が軽くなったことだけはわかる。ただただ「ありがとう」という気持ちと一人で色々とやりすぎてしまった現状の後悔で胸がいっぱいになった。



今日も今日とてレイアウトをする。家具を動かしている最中、テーブル下に隠れていた「踏み台」と書かれた踏み台。何も書かれていなければただの箱だが、「君は今日から踏み台になりなさい」もしくは「僕は踏み台だ」どちらかの意味があるのではないかと、経年で薄くなった太字で書かれた潔いい「踏み台」の文字を見て思った。もっと自分の気持ちにも真面目に、いや気楽に向き合ってみようと軽く目を閉じ一息ついてみたのだった。














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