真実はない、すべて夢

 便利な言い回しを多用しがちだけれど、果たしてそれが正しく言い当てられているのかは、いつも疑問だ。持ち合わせない言葉は使いようもなく、語感だけで選べば誤用を招く。そうやって少しずつ「気に入った言い回し」や「使いやすい言葉」だけが手元に残って、挙句それ以外を使えないような気持ちになる。
 インプットもアウトプットも根底にある飢えは似通っていて――時には同一で並行している――、どちらか一方では埋められず、双方をやりくりすることで、砂漠の砂に水を溢すように、浸透した先から生まれる渇きを、何とかしのいでいる。
 始まりと終わりは果たして同じなのかはもう分からない。今やそれらは地続きで、メビウスの輪のように、もはや継ぎ目も見つけられない。始まりが終わりであるように、祈りが呪いであるように、表裏は常に一体で、良し悪しはいつだって隣人だ。些末な1が集まって多数派になるように、1はいつだって矮小で、そうして全てである。意味を持たなかったものが急に意味を持つように、善悪はすぐに入れ替わって曖昧になる。
 自己矛盾を常に内包するように、社会性と生物性はどうしようもない矛盾を抱えていて、それに目を瞑った「大声」によってかき消されたりする。心が脳の信号の言い換えでしかないように、命や魂の所在を誰も知らないように、虹のたもとのように見つけようもない。そういう矛盾を多面的に捉えながら、自己都合でやっていくしかない。誰か彼かの攻撃を孕んだ主張に気づかないふりをすることだけが、もはや賢さのようにも思える。
 蓄えた知識は身を守るけれど、もたらす予知や鋭敏さ、それから鈍感さの欠如は、同時に内側からその身を蝕んでゆく。そうしてある日、手に入れたかった「正しさ」を獲得するには、全てが遅すぎたことに気づいてしまうのだ。

 今が全てであり、全ては過ぎ去ってゆく。未来はどこにもなくて、あるのは過去だけだ。欲しかったものも、なりたかったものも、今にして思えば全部そう思い込みたい嘘だった。ただただ残った虚(うろ)を抱えて、塗り潰す他ない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?