話す鏡の魔法

 鏡の向こうで泣いている自分が、哀れで惨めだった。声を潜め、背中を丸めて、誰かに気づいてほしいと泣く姿が、浅ましくて気持ち悪かった。耐えきれなくなって、こちら側から鏡を割った。がしゃんと大きな音がして、じんじんとした痛みとともに赤い滴が落ちていった。それでもまだ、割れて残った向こう側、自分はどうしようもなく泣き続けていた。音に驚く素振りも見せず、ただただ惨めそうに泣いていた。なんて浅はかな女だろうと苛立って、殴ってやりたいと思った。けれど、割れた鏡の残りでは、こちら側から向こうへ渡るには小さすぎて、どうにもできなかった。

 「そちらにいこうか?」

 血を洗い、ガーゼを当て、包帯を巻いた。そうして鏡を片付けていると、鏡から声がした。残った鏡の向こう側、泣くのをやめた自分が、座ったままでこちらを見ていた。そうしてもう一度口を開いた。

 「そちらに、いこうか?」

 嘲るように酷くゆったりとした声で、そう告げた。その顔には確かに泣いたような跡があって、それがどうしようもなく惨めでいらいらした。
 私はその声を無視して、そのまま目線を落とし、鏡の破片を集めることを再開した。屈んだ頭の上から、がしゃがしゃと音がして、生温い鉄の臭いが降りてきた。上を見ると新旧入り混じった傷にまみれた腕が伸びていて、私の頭を乱雑に撫でた。
「だめだー、これ以上はとおれーん」
それは確かに私の声と同じ音だった。私の頭をがしがしと撫でる手の主は、鏡の向こうで、けたけたと笑っていた。
「こっちからなら行けると思ったけど、だめだねー! おんなじだあ! 腕いたーい」
それは、酷く頭の悪い声で話す、私そのもののだった。その事実にさらに苛立って、その腕を強く振り払うと、ぱたぱたと赤い滴が白い壁に飛んだ。私はそれを一度だけ見て、また鏡を片付け始めた。もう泣いている声は聞こえなかった。

 「鏡、捨てるの?」
鏡の破片を全て集め終わった頃、ずっと黙っていた声が、また話し出した。
「ちゃんと割れ物って書いて捨てないとだめだよ。危ないからね。」
ひどく穏やかな音だと思った。それは私の声なのだろうけれど、でも、私にはどうやったって出せない音だった。
「ねえ、どうせ捨ててしまうなら、最後に名前くらい教えてよ。」
顔を上げて鏡を見れば、残りの鏡の中で、自分が笑っていた。
「なんでよ、アンタ、私なんじゃないの?」
真っ直ぐと目を見て答えれば、鏡の自分はまるで慈しむように笑って、かぶりを振った。その姿は自分自身なのに、私はそんな顔しないと思った。
「貴女の姿をしているけれど、貴女ではないよ。」
向こうの自分は、さっきまであんなに惨めに泣いていたとは思えないような笑顔をしていた。それでも確かに、その頬には泣いた跡が残っていた。
「だってアタシが溶けて消えても、貴女は居なくならないよ。アタシは、貴女にゴミに出されて、あとは溶けて消えてなくなるだけだけど。だから、貴女の名前、お土産にさせてよ。」
「冥途の土産に?」
「あはは。それいいね。」
鏡の中で、溶けて消えるという自分は、ひどく嬉しそうだった。
「アタシが行くのは高温の焼却炉で、その先なんてものはどこにもないけどね。」
痛くも悲しくもない。それが自然の摂理なのだという声だった。さっきまで背中を丸め、惨めそうに泣いていた人物と、到底同じには見えなかった。
 何だか全てがどうでもよくなって、私が名前を教えると、鏡の自分は嬉しそうに、何度も何度も私の名前を呼んだ。
「もういいよ、わかったってば!」
「だって嬉しくって。」
そうしてもう一度私の名前を呼んだ。まるで一番の宝物のように、大切そうに、呼んだ。なんだか居た堪れなくなって、鏡から目を逸らして髪をいじった。下げた視線の先で、ざらざらした細かい破片が光っている。掃除機で吸ってしまおうと思い立ち、鏡から離れようとすると、また、がしゃがしゃと音がした。
「ありがとね。」
先ほどのように鏡から腕が伸びてきて、私の頭を撫でた。今度はひどく優しい、慈しむような掌だった。
「アンタ、誰なの…?」
鏡の向こうは答えず、私の頭を何度も撫でるだけだった。それがあまりに優しいものだから、私は涙が止まらなくなって、音を立てないように泣いた。掌は、ぽんぽんと頭を撫で続けていた。
 「また会えるよ」
聞こえるか聞こえないかの声が鏡の向こうから聞こえて、腕は鏡の向こうへ帰っていった。そうして残った鏡の中、また自分が背中を丸めて泣いていた。でもそこには先ほどのような惨めさはなくて、それはまるで儀式のように見えた。世界を美しくするための儀式。


 そうして私は、割れ物注意と書き添えたまぼろしを、燃えるゴミに出して捨てた。

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