余ったイチですらない

 足元ばかり見て歩いていた。そのうちにあまりにも美しくない後ろ姿に辟易して、今度は遠くを見るようにした。背筋を正して顎を少し上げる。そうして、斜め上ばかりを見つめている。顎を引く方が美しいことを知っていたけれど、誰かの目線を意識することはやはり恐ろしかった。それはどうにか雑踏に溶け込んで、誰それの表情に頭の中をざわつかせないための精一杯だった。僕は今、みんなの風景だから、大丈夫。そう言い聞かせて斜め上の空を見れば、少しだけ息ができた。
 平日の早朝。そこそこの人混みを抜けて、電車を乗り換える。下ってゆく電車には、反対方面の電車ほどの混雑は見られなかった。早朝特有の気怠さと静けさに満ちた電車の中、連結部に近い、空いている座席に腰掛た。聴いている音楽のボリュームをひとつだけ落とし、目を瞑る。目的地までは遠い。

 前世も来世も信じてなどいない。それは最早、あってほしくないという祈りに近い。そうでなければ、あまりにも業が深すぎて、今世の終わりさえ救いにならない。最低限の社会を持続させ、子孫を残し続けてゆくことだけが、本来インプットされているはずの僕ら。個としての価値は、全体としての価値に劣って、簡単に淘汰されうる僕ら。果たして僕らに、生まれ持った罪などあるのだろうか。あると思う方がきっと楽で、だってそうでなければ、こんなにも言いようのない自責の念に苛まれ続けていることが、ただの暇つぶしでしかなくなってしまう。
 微睡んだままいると、終点の二つ前、目的の駅に到着するとのアナウンスが流れた。目を開け、ゆっくりと立ち上がり、ドアの方へ移動する。僕の開けた席に、中学生くらいの女の子が座るのが見えた。

 駅を出ると、潮のにおいがした。そのまま少し歩けば、冷たい潮風がやってくる。それでも、海の上には、水を楽しむ人の影がいくつか見えた。
 国道を渡り、海岸沿い、舗装されたコンクリートの上を歩く。低い太陽を水面がきらきらと反射していた。人の不平等感とは、いつ生まれてしまうのだろう。みんなここから来て、ここへかえってゆくというのに。
 斜め上の方を見上げながら歩き続ける。視線の先では、小高い岩山が、その肌を波に削られていっていた。波の動きに意識をやったまま歩いていると、足元がもつれて転んだ。咄嗟に手を付き、痛みと羞恥に顔を顰めながら、手と膝についた砂を払いながら立ち上がる。その刹那、視界の端、海が瞬いた。ばっとそちらを見やれば、人影と地平線の間で何かが跳ねた。どうやらそれは、僕にしか気づかれていないようだった。
 恥ずかしさを隠すように、何でもない顔をして、また歩き出す。幸い、どこからも血は出ていなかった。
 しばらく歩けば、舗装された道が終わりを迎え、ごつこつとした岩肌が現れた。遠くで犬のはしゃぐ声が聞こえて、冷たい潮風が頬を刺した。僕は、ボディバッグの中、つるりとした質感が指先に触れるのを確認してから、岩を登り始めた。目的地は近い。

 頂上に着く頃には、息は上がり、手のひらは砂と岩のかけらで汚れ、じんわりと汗をかいていた。緩やかなように見えた岩肌も、登ればかなりの困難さを極めていた。羽織っていた薄手のダウンを脱いで腰に巻く。汗を拭いながら浴びる、冷たい潮風が、今度は心地よいくらいだった。
 そのまま岩の上に腰掛け、水面が瞬くのを見つめた。美しいと思った。けれど、どこにも懐かしさはなかった。『母なる海』というものが、全くピンとこなかった。二本の脚を見つめ、動かしてみる。ジャージを履いた、少し細長いだけの男の脚。僕はどちらかといえば、泳ぎは不得意な方であった。
 膝を抱え、じんわりと来る疲労感に微睡みながら、海を見つめれば、波がゆったりと岩肌を削っていっていた。穏やかな海からやってくる風と岩の冷たさが、身体の熱を奪ってゆく。

 海の上にいた人影が引き上げてゆくのが見える。おそらく、もう昼の時間なんだろう。すっかり冷えてしまった身体に、腰に巻いた上着をもう一度着せた。水面はまだきらきらとしている。
 誰もいなくなった海を見つめていると、なんだか気持ちが凪いでくるようだった。空気や岩肌の冷たさや、ごつごつとした感触も気にならないくらいだった。そうして、そのまま岩の上で、膝を抱えたまま、少しだけ眠った。
 浅い眠りの中、夢を見た。色白で、長い緑髪の女の人が、悲しそうに、でも慈しむようにこちらを見ていた。不思議と恐れはなかった。僕と同じ碧い瞳に見つめられていることに、なんだかとっても安心した。
 身体の痛みに目を覚まして、立ち上がると、全身がぱきぱきと鳴った。わりと眠っていたらしい。眠る前よりもかなり、太陽が海に近づいていた。時計を見れば、十五時を回ったところだった。あんな体勢でよく眠れたものだ。
 海に背を向け、作業を始めることにした。カバンの中から、赤い蝋燭とライターを取り出す。岩肌の尖った部分に蝋燭を刺すと、まるでこの蝋燭のために誂えられた燭台かのように、ぴったりとはまった。それは、この岩が正解である証拠だった。そのまま、三本の蝋燭を全て立てる。そして、風から庇うようにして火をつけた。
 ゆらゆらと揺れる炎に呼応するように、海の様子が荒れ始めた。先ほどまで穏やかだったはずの空も、どんどんと暗くなってゆく。同時に、僕の脚もちりちりと痛み出した。履いていたジャージをまくれば、青とも緑ともつかない、ごわついた肌が現れる。いつもよりも、色が濃くなっていっているようだった。どちらにも入れない、はじかれた僕。どうせ淘汰されるくらいなら、溺れて還ってしまいたいと、蝋燭の伝説に縋った。

 蝋燭が溶けてゆくのに合わせて、雨風も強まり、波も高くなっていった。この岩もいつか呑まれてゆく。それでも不思議と蝋燭の灯は残り続けていた。蝋燭の伝説が本当であったと、僕はとても安心した。
「来たよ、お母さん。」
ひとりぼっちはさみしいから、迎えに来てよ。


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