子どもたちは成長し大人たちは未熟なまま退場する

 エヴァンゲリオンが終わった。

 日をまたいで二度観て、色んなものを引きずったまま、どこかにアウトプットしなくてはやるせなくて堪らなくて――そうしてこれを書いている。

 ここからは考察でも何でもない、ただただ揺さぶられてしまった感情を落ち着かせるための、他愛のない戯言と独白を書いていく。ただどうしてもその性質上、そこにはネタバレが含まれてしまうので、シンをこれから視聴するという人は注意してほしい。(一応礼儀として書いておくことにする)

 本当に一個人(ただのファン)が思ったことを感情のままに書きなぐっただけなので、自己投影や勝手な解釈、そこはかとない矛盾ももちろん含まれていることも、自己防衛の一環として、あらかじめ記載しておく。






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私の中のエヴァ 


 まず最初に私がエヴァンゲリオンに求めていたものは、純粋な考察の余地だった。そこが好きになる入り口だった。別に神話的なものもキャラクターも、ロボット的な意味合いも、特段心を刺すものではなくて、ただこちらに向かって「あとは勝手にどうぞ!」と言わんばかりに放り投げられた「余地」だらけの広げられた風呂敷が大好きだった。

 アニメも旧劇も観て、シンジの弱さにいら立つのではなく、周囲の大人の未熟さや傲慢さ、それからエゴに憤りを覚えるようになった頃、新劇場版が始まった。そうしてアスカが「式波」になってしまったことを知った時、初めて私は「惣流・アスカ・ラングレー」という女の子のことが、自分で思ったよりも大好きだったのだと気づいた。

 アスカは、私の中でヒロインであり、同時にヒーローであった。強くて弱くて美しく、とんでもなく脆い。それなのにその脆弱性を自覚しながらも、「ひとりで平気」「みんな認めて」「エヴァにさえ乗れたら」「私には私だけいればいい」そうやって心を何とか保ちながら、危うくも「強く在ろう」とする心が大好きだった。守られるのではなく、誰かを守ることに自身の価値を見いだす姿勢が本当に大好きだった。がんばってがんばって――それでも報われない。むしろ、他の誰よりも痛くて辛くて理不尽な目に遭わされ続けている。でもいつかきっと誰かが褒めて頭をなでてくれるだろうという「あるかわからない希望」に縋る、強くて弱い女の子。そういうアスカが大好きだった。
 だからこそ、式波タイプになってしまったことが、当初は本当に悲しくて堪らなかった。
 ただその思いは、今回少しだけ落ち着いた。ユーロネルフで訓練を受けていた作画の違った、人形と一緒に居た女の子や、式波が「オリジナル」と呼んだ子が(若干声は違ったけれど)「惣流」に思えたし、アスカはやっぱりオリジナルでもクローンでも、「ひとりでも大丈夫だと暗示をかけながら、がんばってがんばって誰かに褒めてもらうことを目指す」強くて弱い女の子だったから。いつだって一番痛くて辛い目に遭わされるのに、寂しいことを自覚しながらそれをしまってやり過ごす。アスカは私の大好きな女の子だった。
 浜辺に出てきた女の子が、シンジと対話した時には惣流、マリには式波の魂で応えていたならいいなと思う。駅のホームでひとりいたアスカが惣流で、ケンスケのもとにあったエントリープラグが式波で、それぞれの形でサルベージされていたらいいなと思った。ただただ、アスカたちの幸せだけを願っている。彼女たちに痛いことや悲しいことがこれ以上起きない世界になっていてほしい。



シン・エヴァンゲリオンの個人的ハイライト

 ここからは、観ていて色んな意味でとてもきつかったシーンを書いてゆく。

 まず、シンジが泣きながらレーションを食べるシーン。自分のせいで大事な人を目の前で死なせてしまった。死んでしまいたいのに、空腹は感じる。生きていたくもないのに、食べることを選んでしまう。精神と裏腹な生物的な欲求に憤りとやるせなさ、虚しさを感じているのだろうと思って、どうにもいたたまれなかった。

 次に、黒波が消えるシーン。一度だけ白い、これまでのアニメすらも彷彿とさせるような姿になるのも、視聴者への酷い仕打ちだとも思ったが、それ以上に彼女が「自分自身の感情」をきちんと持ち、プログラムとして仕組まれていたことであっても「よかったと思うから」と言えて、そうして「なんでみんな優しいんだ」と問う自罰が最高潮のシンジに「碇君が好きだから」と無垢に伝えて救える黒波が、「ツバメを抱っこしたかった」「ここ(第三村)にいたかった」「好きな人と一緒にいたかった」と、命令ではない「私の願望」を、絶対的に「この」アヤナミレイにしかない感情を、優しい声音で吐露しながら消えてゆくのが、堪らなく辛かった。最初にゲンドウしかなかった世界がシンジに広がり、そして第三村まで広がっていって、そうして自分を持てた。その終わりがあれは、私には酷に映った。

 アスカのシーンは先に書いた通りだが、本当に「なんでアスカばっかりひどい目に遭うの? 痛くされるの?」とただただばたばたと涙を溢していた。



ミサトのこと

 ミサトに関して好印象なコメントを多く見かけるが、私個人としては、かなりエゴが強い印象のままだった。「大人のキスよ」ではなく、ハグをして「できる限りサポートする」という保護者的立ち位置に変われた対比はとてもよかったが、彼女の「母親らしいことが何もできないから離れる」「リョウジごめんね、母さんこんなことしかあなたにできなかった」は、ひたすらに彼女のエゴでしかなかった。そばにいない見守るだけの愛情なんてものが、時々でも顔を見せて、ハグをするに勝るというのだろうか?
 エヴァシリーズは基本的に親というものはエゴの塊で未成熟で、子どもにその責を負わせようとしがちだが、ミサトも最期までそうだったな、と思った。誰かがやらなければならないのも分かる。それが加持との対比的な意味でもミサトでなければならなかったことも、葛城父の落とし前という意味で彼女でなければならなかったことも、艦長である彼女でなければならなかったことも、理解している。そこに異論があるわけではなくて、ただただ、子どもを産んで、母親っぽい顔をして、それっぽいセンチメンタルを見せつけられたことが気に食わないだけだ。
 別にミサトさんのこと嫌いなわけではないよ。別に好きとか嫌いとか、そういう感情は彼女にはない。ただただ身勝手だな、と思った。



終わりに

 たくさんたくさん待たされた最後として、とても誠実な終わり方をしていたように感じた。空白の14年も外観が何となく掴めるようにして、皆の謎もそれとなく解いて、広げた風呂敷をそれなりの形に畳んで――「終劇」もうエヴァンゲリオンは終わりだから、皆も追うのは終わりにしようね。と言われているようにとても感じた。

 ただそれでも残る謎は、冬月先生は人の枠を超えていたの? それとも気力で人型保ってたの? 最強ジジイパワーなの? というところ。ここは本当に知りたい。



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