春夏秋冬

   突き刺さるみたいな視線をいつも感じていた。それは何だか捕食せんとする視線のようで、居た堪れないというよりも、恐怖に近いものを感じていた。そうしてずっと目線の端で見つめ返すことすらできないまま、僕は春を過ごしていた。
 勤めている店舗は、どこにでもあるオフィス街のそれなりに忙しいカフェで、それでも彼女はいつも同じ席にだけ腰掛けていた。必ずひとりきりで、気づけばそこに腰掛けている。いつもそのことに、視線を感じてから気づいていた。怖くて見つめ返せない僕は、いつも彼女の足元だけを視界に入れていた。履き潰したスニーカーの日もあれば、綺麗に磨かれたエナメルのパンプスの日、赤く細いピンヒールの日や、ゴツゴツとした厚底のブーツを履いている日もあった。あまりにも靴の印象が違いすぎて、最初は別人だと思ったこともあったけれど、刺さる視線は同じ席からやってきていて、「ああ、すべて彼女だ」と僕はある日納得した。
 彼女が何を飲んでいるかも知らず、ただただ怯えを悟られないように、気づいたことに気づかれないように。何でもないような顔をして、足元で存在の有無だけを確認しながら、彼女の退店まで、カウンターの内側から出ないように努めていた。気付かれたら最後、きっと頭から丸呑みされてしまうような、そんな気がしていた。

   夏になって、僕は店舗を移動することになった。もうあの視線を受けなくてすむ安堵感だけが、僕を支配していた。それと同時に、一度くらい視線を上げてみてもよかったかもしれないとも思った。せめて後ろ姿くらい見たって、よかったのではないだろうか。今にして思えば彼女は、僕が気付いてから、必ず5分と経たずに退店していた。おそらく僕の気付きを悟っていたのだろう。
 「ばれていたのか。」
 ひとりごちてみて、やっぱり何を飲んでいるのかを確認するくらいでは、捕って喰われたりしなかったはずだったのだと、今更恐怖を薄めて飲み下した。
 じりじりと日差しが首の後ろを焼いて、ぶわりと毛穴から吹き出した汗が背中を流れてゆく。がりがりと、底に残ったアイスコーヒーの氷を噛み砕きながら、僕は公園のベンチから立ち上がった。視線の先では、子どもたちが焼けるように熱くなった鉄棒を触ってはしゃいでいた。
 氷の冷たさに救われた体内が、また暑さにぼんやりしてくる頃、僕は冷たく冷えた店内へと吸い込まれてゆく。
 「おはようございまーす。」
バックヤードへ入り、着替えをして、最後に薄いカーデガンを羽織った。店舗が変わっても変わらない、いつもの夏が、そこにはあった。ああでも、彼女がいない、穏やかな夏は久しぶりだとも思った。

 空が高い。日差しの強さは影も見せず、ああもう秋が来たのだなと、店の入り口から見える外に、ふとそんなことを思った。
 忙しくも暇でもない、いつも席はほとんど埋まっているけれど、席を求めて彷徨う人もいない。住宅街に近い場所にあるこの店舗は、なかなかに不思議な場所だった。僕にとってそれは非常に心地良く、できればここに長く居たいと思うほどだった。移動になって一週間経つ頃から感じ始めた気持ちは、冷房の寒さに頭痛を耐える夏が終わっても、まだ残っていた。
 穏やかな秋の日の、それはまた穏やかな閉店前の時間に、店内のテーブルを拭いていると、いつも来ている女性が立ち上がり、こちらにやってきた。
 「あの、これ、」
恥ずかしそうに何かを差し出す彼女に、僕は淡い期待のような、むず痒い気持ちになりながら、そっとそれを受け取った。
「なんか、忘れ物、みたいで。あっちの席の影に置いてあったんですけど…」
僕はありがとうございますと微笑んで、忘れ物だという本を受け取った。その傍ら、少しだけ期待していた自分のことを心の中で笑った。
「またどうぞお越しください。お気をつけて」
最後にそう付け加えると、彼女は一瞬だけびっくりしたような顔をして、それから微笑んだ。
「ありがとうございます。お兄さんも。」
 微笑んだまま彼女は、愛らしく僕に手を振り、カツカツとヒールの音をさせながら、店を出ていった。何てことのない、普通のベージュのパンプス。僕は何故だか、刺さる視線の彼女を思い出して、あのピンヒールからはどんな音がしたんだろうと思っていた。

 耳が痛い。寒さというものは厄介だ。店から駅までの道も、自然と速足になる。暑さも寒さも特に嫌いではないが、苦手ではある。今日みたいな冬の日は、着る物が多くて、身動きが取りにくくて嫌になる。マフラーを口元まで上げて、僕は改札を抜けた。
 ホームの上は風が抜け、さらに冬を厳しくするようで、たった今電車が行ってしまったことに絶望していた。かといって待合室に入る気にもなれず、身を窄め、ぼんやり反対側のホームを見ながら、電車を待っていた。何てことのない冬の日。隣では、今し方買ったのだろう、温かそうな湯気を立てるコーヒーを、スーツ姿の男性が飲んでいた。コーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
 ふと、本当にとりとめもなく、彼女が何を飲んでいたのか、自分が本当は知っていたことを思い出した。いつも同じ席で同じように過ごす彼女は、いつもきちんと返却カウンターへ食器を返していて、それにはいつだって、最初には温かかった黒い液体が、少しだけ残っていた。
 (そうだ、あれはホットコーヒーだった。)
 永年のミステリーが解けたような気持ちになって、待ちに待った電車に乗り込んだ。暖房の熱が身体を暖めるのを感じながら、マフラーを口元まで上げて、少し笑った。彼女を何としてでも見ようとしなかった自分の強情さが、どうしようもなく可笑しかった。

 梅の花が綻んだ頃、僕はまた、刺さるような、捕って喰ってしまうような視線を感じた。驚き慌ててそちらを向けば、確かにその瞳は真っ直ぐ僕をとらえていた。彼女は、驚く素振りもなく、目線も外さず、ただ一度だけ瞬きをした。僕は「目線を合わせても食べられなかった!」と心で叫んだ。そのまさしく永遠のような一瞬に、窓から強い風が吹いて、僕は目をぎゅっと瞑った。
 パチリと目を開けると、そこには見知った天井があって、僕はそれが夢だと気づいた。夢の中でも、彼女の顔はひどく薄ぼんやりとしていて、ただただ手元のコーヒーカップだけが、脳裏に焼き付いている。
 「僕らはもう交わらないね。」
 そうして僕は少しだけ泣いた。一度くらい顔を見たってよかったのにね。暖かくて強い風が、外気を揺らしていた。

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