世間という名の私
許さないのが、世間ではなくあなただというのならば、私が負い目を感じているのも、私が私を許さないからだろう。たとえば、ひたすらに一緒に居たいと願ったことがないだとか、明日を少しでも楽しみに思わせてくれるものがないだとか、少しでもましになるかもしれないことを諦めきれないだとか、惰性で呼吸しているだけだとか――。そういう積み重ねが、自尊心を腐らせて溶かして、ありもしない承認を求めるだけの怪物にしてしまった。
ずっとずっと前に、凡庸さに気付いたばすなのに、諦めたような風を装いながら、その実、特別を諦めきれずにいる。誰のことも、好きでも嫌いでもない。もちろん自分のことも。
感情を揺さぶられないことを良しとしている。だって、疲れるから。ひたすらに年を取るという平等に怯えながら、なんでもない顔で、社会をやるだけで手いっぱいなのだ。それなのに、幸福を目指さなくてはならない。好きなものがなくてはならない。楽しみをもっていなくてはならない。そういう世間一般(という私)的な呪いが、真綿になって首を絞めてくる。
二十歳になったとき、望んだように愛してもらいたいという烏滸がましさは、雲の上のさらに先を望むようなもので、死んでもなお手に入らないのだと、理解して、絶望した。そこから先、足掻くように小さな希望を描いて、それすらも高望みだと知って、諦め妥協するポイントを見誤り続けた。そうして今日、幸福の姿も形も知らないのに、それを手に入れたいと願うことの愚かしさを、ようやく受け入れた。私の愛は、それっぽい何かでしかない。
人はひとりでは幸せにはなれないのでしょうか。
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