虚しさを内包する頭痛とやわらかい雨音

 急に、本当に急に。ふと、納得したり理解したりすることがある。すとんと、胸に落ちてくるそれは、無意識に考え続けた結果であり、正しく把握できた証なんだろう。

 わたしたちはいつだって、全体のひとつでしかない。替えのきく部品で、きちんと優良な遺伝子を残して繋ぎ続けていればなんだっていい。地球にとって害になれば、いつしかきっと淘汰されてゆく。そういう風にできている。だから、こうやってやたらめったら思い悩んだことも、みんなみんな終わってゆく。

 そうやって納得したつもりで、しばし凪いでいた心が、気づけばまた悲しい悲しいと喚くようになった。頭の痛みに呼応するようにわんわんと喚き散らす声が、ひどく惨めだった。悲しさというよりは、いつも通りの虚しさに近い感覚だった。

 天候がもたらす頭痛にぼんやりしていると、ふいに合点がいった。すとん、と、帰ってきた虚しさの理由が分かった。至極単純な話だった。
 スペアとして、親の血を繋いでやることもできなければ、愛情のまやかしの注ぎ先としても不要になった。たったそれだけのことだった。
 (わたしが)産まれてきたことに万が一にでも意味なんてものがあったのだとしたら、第一に親の血を繋いでやることで、第二に、金銭的・精神的拠り所になってやることだった。それもできないのであれば、可愛がられる存在であることが仕事だった。はずだった。
 でも、兄弟が子を持ち、その子が女の子であることが決定した今、わたしは血を繋ぐスペアとしての意味ももうなく、稼ぎも小さいが故に金銭的な拠り所にもなれない。精神的支柱であることからは逃げ出したし、兄弟の子が「可愛がられる」ことを一身に受ける価値のある存在として産まれる。
 それはまるで、もうわたしが死ぬことを許されているようで、嬉しくてかなしい。

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