だって許されているからもう救われているんだ

 魂を失っても人は生きていけた。これだけは奪わないでと懇願したものを自ら捨てた次の日も、しっかりと目覚めて息をしていた。それはもしかしたら初めから、私の魂などではなかったのかもしれないし、そもそも、魂なんてその程度の何の尊さも持ち合わせないものだったのかもしれない。ただ私は、息をして、存在し続けていた。

 「植物も人も、思ったように育ってはくれないね。」そうやって笑ったのは君だったろうか、私だったろうか。願わずとも望まずとも、どんどんと過去は掠れて見えなくなってゆく。時には都合よく書き換えられたりなんかして、もはやその言葉は、誰の口からも発されていなかったのかもしれない。そうして、自分のことを嘘吐きだと知っていた君の誠実さを、今更になって思い返してみたりしているのだ。「覚えるために忘れる。辛くなりすぎないために忘れる。成長と防衛だよ。」致し方ないことだと理解しながら、だからこそ、自分を嘘吐きだと、事あるごとに言っていた。それはどうしようもない誠実さだった。

 世界は地続きでもなければ、広がってもゆかない。ずっとそこに在って、目の届く範囲が開いたり閉じたりするだけだ。
 祈りも救いも、与えられるものでも求めるものでもない。ただそういうものに価値を見出して、縋ってみたいだけのこと。もしくは、そういう救いじみたものに出会えるよう、初めからプログラムされていた人たちの押し付けだ。だからこそ、努力は必ずしも報われないし、理解を求める気持ち全てに応えがあることもない。
 本来世界は誰にでも単一で、厳しくも優しくも、まして美しくもない。そういう主観的なものの中にはない、もっとずっと外側にただ存在しているだけのもののはずだし、そうでなくてはならない。それを見誤るから、どうしたって社会や歴史に殺されていったりする。

 花の頭が一等輝いて落ちるのも、じわりじわりと茶色く変色して消えてゆくのも、全部そういうプログラム。だから私が、落ちた椿の腐食を愛おしく思えなくなってしまったのも、プログラム。それを少しだけ残念に思うことも、みんなみんな最初から決まっていた。そういうプログラム。そうして全て最期まで予定されている。
 何も悲しくなくなったら、何も楽しくなくなってしまった。そう、これもまたどこか遠く、概念的な何かーーきっとそれをかみさまと呼んだりするーーが作り出した予定調和だ。

 「必要がなくなったら忘れて、辛くなったら全部忘れたらいい。好きも嫌いも苦手も怖いも、全部きちんと持っておけなくていい。忘れられるものは忘れな。それでいいんだ。」そうやって許してくれたのは誰だった? それすらも忘れてしまうことを許してくれていた? それは君だった? そうやって、波のように何かを思い出したり忘れたりしている。

 鳩尾がじくじくと痛まなくなった代わりに、低くて長い耳鳴りがずっと響いている。鼻の奥が痛んで叫び出したくなるような寂寞は消えて、あとにはぼんやりと曖昧になった思考と、時折する頭痛だけが残った。手のひらを見つめても、これが果たして私なのかどうかが分からない。握ろうと念じれば、ぎゅっと閉じるそれは、紛れもなく私の手のひらのはずなのに。「ねえ」誰に呼びかけるでもない声は、強い風が、砂埃を撒き散らしながら攫っていった。どうやら春が来るらしい。

 「ただこれだけは約束して。勝手に消されないこと。あとは全部、許してあげるから。」そう言ってくれたのは君だったらはずなのに、もうその君が誰だったのか、どうしても思い出せない。
 たばこに火をつけ、一口呑めば、その苦みに鉄の味が混ざった。理由は分からなかった。でも、「許すよ。」と言う無機質な声と甘い匂いがぶわりと返ってきて、これはいつも通りだと思えた。忘れずに済んだのだという事実に安堵したけれど、この安堵が何からくるものなのか分からなかった。白く薄い爪を見つめながら、いつかこれも都合良く書き換えられてしまうのだろうかと思った。それとも、もうすでに書き変わってしまったのだろうか。

 遠くで鳥の鳴く声がする。脳裏で白い瞳が瞬いて、「急いで帰りな」と急かしていた。

 手のひらをぎゅっと握りしめる。「うん」少しだけ指先に体温を感じた。「よかった」小さな独り言が、少し冷えた空気に溶ける。大事なことは、まだ私の中に残っていた。私の半身。私の魂。低い耳鳴りの奥で声がする。「許すよ、今までも、これからも、全部、ずっと。」理由のない許しは、約束ときっと対だった。
 君がいないから、私は身体的に少しだけ弱くなったらしい。多分だけど。ところどころ爛れた、白い手の甲を撫ぜながら、ホテルへの道を急いだ。
 家はずっとない。自分の本当の名前も、もう随分と思い出せない。君の姿も、その瞳が残っているだけ。あとはたまに、声と匂い、約束を思い出せるだけだ。君がいついなくなったのか、どうしていなくなったのかも、もう分からない。
 自分のことを人だと思っていたけれど、もしかしたらそれも違うのかもしれない。人は陽光では焼かれないっけ? とうの昔に忘れてしまった。
 そう、これも最初から全て決められていたこと。だから私が君の言いつけを守るのも、最初から決められていたことだね。君のことを全部無くしてしまう前に、先にこの約束を忘れてしまうのだろうか。
 他は全部残らなくても、唯一許しをくれた君のことだけは、最期まで残るように予定されているといい。そうだといいと思うけれど、祈りも縋りもしないよ。だってそんなもの、意味を成さない。
 魂を失って、世界がほとんど閉じてしまっても、私は息をしている。そうして此処に在る。今日も、多分明日も。

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