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第一章 物事 5〈存立構造〉

物事は、単独で存立しているわけではない。むしろ単独で存立するものの方が特殊である。そうではなく、一般には、複数の物事がその脈絡において法則的に〈閉鎖体系〉を成し、そのことで相互にその存在を支持している。このように存在を法則的に支持する閉鎖体系を、〈存立構造〉と言う。そこでは、けっして条件から帰結へと整然と展開しているわけではない。むしろ、条件である物事が帰結となり、帰結である物事が条件となる。というより、〈存立構造〉は、それが閉鎖体系である以上、かならず全体としてはこのように錯倒しており、また、この錯倒こそがその脈絡を構造として綜合している。この意味で、それは単なる錯乱ではなく、あくまで錯綜である。このような構造の錯綜は、いくつかの特徴的な型が認められる。すなわち、それは、〈自証〉〈対証〉〈環証〉〈協証〉〈代証〉である。以下に、このそれぞれを説明しよう。

この節での問題は、ドイツ観念主義などにおいて、「論理学」としてすでに問題とされている。(それについては、G.W.F.Hegel: Wisenschaft der Logikなどを参照せよ。)しかし、ドイツ観念主義のように、自証などを[自己が自己を定立する]などと考えるのは、誤解を生じやすい。なぜなら、ここにおいて、「自己」とは、なんらかの物体などではなく、定立という事件そのものでなければならないからである。

〈自証〉:これは、同一の物事がみずから条件となり、みずから帰結となるものである。したがって、ここにおいて、その物事は、[定立することを定立すること]である。また、この対に、〈自誤〉として、[廃滅することを廃滅すること]というものもある。この〈自証〉の実在における条件と帰結の構造を、論理における根拠と帰結の構造に写せば、[この文は正しい]というものになる。同様に、〈自誤〉は、[この文は間違っている]というものになる。

単純で無意味にも思えるこの〈自証〉構造は、古代ギリシア哲学では、〈自明(アウタルケイア、αυταρκεια)〉と呼ばれ、[物事の理想にあるものは、この条件を満たす]とされ、とくにキリスト教の中世スコラ哲学においては、〈神〉の定義として尊重されてきた。すなわち、神ヤーウェーがモーシェに答えたとされるところによれば、神は[在りて在る者]、すなわち、存在を本質とするものであり、[神の存在は、その定義からただちに証明される]とされた。(もっとも、その後、神ヤーウェーのモーシェに対する答えは、ヘブライ語としては、実在ではなく顕現であるとされ、[いつでもどこでも顕現する]という意味であると修正された。)

また、仏教哲学では、〈自証〉構造は、〈自性(スヴァブハーヴァ)〉と呼ばれる。それは、それ自身で独立に存在するものであり、縁起説ではむしろその存在が否定される。

実際的には、我々はこのような〈自証〉構造を〈生命〉というものに見ることができる。すなわち、生命の本質は、[生命がその生命そのものを再生すること]である。このような自己創造の問題は、いわゆる「実存哲学」においては、生身の人間に限定されて議論されたが、より広く考察すべきものであろう。実存哲学における人間の存在様式については、M.Heidegger: Sein und Zeitなどにおける〈実存[Exsistenz]〉などの概念を参照せよ。

一方、〈自誤〉は、〈二重拘束[double bind]〉として、ベイトソンによって精神分裂病との関係などが指摘され、その後、さまざまな場面での問題が議論されている。この概念は、もともとラッセルの〈論理階型[logical type]〉の理論に基づくものである。

しかし、「私の言ったとおりにするな」に代表されるベイトソンの挙げている例は、言語内容と言語行為の不適合であって、純粋な論理的矛盾ではない。つまり、この言語内容自体は矛盾しておらず、これが言語行為であることにおいて、相手の対応という帰結がディレンマとなっている。すなわち、何かをする際に、言ったとおりにすれば、この命令に違反し、言ったとおりにしなければ、この命令で言ったとおりにしたことにおいて、この命令に違反する。しかし、なにもしないかぎり、問題とはならない。そもそも、この命令が言ったのではなく、紙に書いて渡されたのならば、言ったとおりさえしなければよいだけのことであろう。

ディレンマ、すなわち、連関の閉塞は、構造的なものではなく、脈絡的なものであり、現実には、ひたすら停滞し続けるか、または、やがて一方のレンマ(脈絡整合性)を破壊して進むだけのことである。[どちらのレンマを破壊するか]は、崩壊しやすさによることも、元の性向によることも、先の目標によることもある。

これに対して、ここで議論しているのは、このような脈絡上の連関の閉塞ではなく、あくまで構造的な連関の閉鎖である。そして、そこにおいては、〈自誤〉などであっても、連関は、この閉鎖的構造においてけっして停滞することはなく、むしろときには加速的・増長的に進展さえするのであり、それゆえ、その閉鎖的構造そのものを、破壊するどころか、強化することすらある。まして、〈自証〉などであれば、なおいっそうのことである。

〈対証〉:これは、二つの物事がたがいに条件となり帰結となるものである。したがって、ここにおいて、その二つの物事は、自証同様に、ともに[定立することを定立すること]である。ただし、対証の場合、前者の「定立すること」とは、後者の定立することを定立することであるから、その二つの物事は、[定立Aすることを定立Bすることを定立Aすること]と[定立Bすることを定立Aすることを定立Bすること]、つまり、[定立Bされるように定立Aすること]と[定立Aされるように定立Bすること]である。また、この対に、〈対誤〉として、[廃滅Aすることを廃滅Bすることを廃滅Aすること]と[廃滅Bすることを廃滅Aすることを廃滅Bすること]、つまり、[廃滅Bされないように廃滅Aすること]と[廃滅Aされないように廃滅Bすること]というものもある。この〈対証〉の実在における条件と帰結の構造を、論理における根拠と帰結の構造に写せば、[[右の文は正しい][左の文は正しい]]というものになる。また、〈対誤〉は、[[右の文は間違っている][左の文は間違っている]]というものになる。

〈対証〉構造は、しばしば〈愛〉の定義とされる。すなわち、[[愛すること]は、[愛されようとすること]である]とされる。たとえば、J-P.Sartre: L'etre et Le Neant, p.444などを参照せよ。

〈環証〉:これは、三つ以上の物事において、それぞれが順次に帰結となり条件となるものである。したがって、ここにおいて、その三つ以上の物事は、いずれも[定立することを定立すること]である。ただし、それは、たとえば、三つの場合、[定立②することを定立①すること]と[定立③することを定立②すること]と[定立①することを定立③すること]である。また、この対に、〈環誤〉として、[廃滅②することを廃滅①すること]と[廃滅③することを廃滅②すること]と[廃滅①することを廃滅③すること]というものもある。これらは、対証・対誤と類似してはいるが、その個々においては因果の錯綜がない点に特徴があり、そのゆえに対証・対誤とは分けて考える必要がある。また、逆に、三項以上の場合、この点において三項の場合と基本構造は変わるところはない。この〈環証〉の実在における条件と帰結の構造を、論理における根拠と帰結の構造に写せば、[[第二の文は正しい][第三の文は正しい][第一の文は正しい]]というものになる。また、〈環誤〉は、[[第二の文は間違っている][第三の文は間違っている][第一の文は間違っている]]というものになる。

このような〈環証〉構造は、貨幣においてその実例を見ることができる。このことについては、後に詳述しよう。

これらの〈対証〉〈環証〉は、錯綜的とはいえ、同一の物事または同列の物事の間の構造であり、「水平錯綜的」と呼ぶことができる。これに対して、物事が集合化することにより、そこに要素と集合の間に錯綜構造が生じることがある。このようなものは、「垂直錯綜的」と呼ぶことができる。そこで、次に、このような垂直錯綜構造についても、そのおもなものを考察しておこう。

〈協証〉:これは、要素である物事が条件となって、集合である物事が帰結となるとともに、集合である物事が条件となって、要素である物事が帰結となるものである。したがって、ここにおいては、その要素である物事は、[集合的に定立すること]であり、その集合である物事は、[要素的に定立すること]である。また、この対に、〈協誤〉として、その要素である物事は、[集合的に廃滅すること]であり、その集合である物事は、[要素的に廃滅すること]であるというものもある。

このような〈協証〉や〈協誤〉は、〈自証〉や〈自誤〉において、その錯綜性がその錯綜の要素へ分裂することによって発生することがある。また、逆に、〈対証〉〈環証〉や〈対誤〉〈環誤〉において、その錯綜性がその錯綜の〈自証〉や〈自誤〉へと展開することによって発生することがある。ただし、この場合、〈対誤〉〈環誤〉から〈協証〉へ、また、〈対証〉〈環証〉から〈協誤〉へ展開することもある。しかし、もちろん、要素における内的な〈対証〉〈環証〉も〈対誤〉〈環誤〉もない〈協証〉や〈協誤〉もありうる。この〈協証〉の実在における条件と帰結の構造を、論理における根拠と帰結の構造に写せば、[[これらの文は正しい][これらの文は正しい][これらの文は正しい]]というものになる。また、〈協誤〉は、[[これらの文は間違っている][これらの文は間違っている][これらの文は間違っている]]というものになる。

〈協証〉において、実在するのは、一見、要素である物事のみである。しかし、要素である物事が実在することこそ、それらの物事を所有する集合である物事が実在することにほかならない。なぜなら、それらの物事は、たんに実在するのではなく、すでにたしかになんらかの集合の要素として実在しているからである。もちろん、理論的には、要素の実在しない集合(「空集合」)だけがある場合もある。しかし、その存在は、実際は、実在態ではなく、あくまで観念態として先駆的に定立されているにすぎないものであろう。

〈協証〉は、政治においてその実例を見ることができる。たとえば、米国民たちが米国の正義を主張するのは、これである。また、〈対誤〉から〈協証〉が展開する例としては、米国のソ連否定とソ連の米国否定という〈対誤〉が両国間で〈自証〉になることによって、戦争という〈協証〉が成立する、というようなものが考えられるだろう。

〈代証〉:これは、第一次の要素である物事が条件となって、その第一次の要素を所有する第二次の集合である物事が帰結となり、また、その第一次の集合である物事が条件となって、その第一次の集合を所有する第二次の集合である物事が帰結となり、さらに、その第二次集合である物事が条件となって、第一次の要素である物事が帰結となる、というものである。これを、「上昇代証」と呼ぼう。この逆に、その第三次の集合である物事が条件となって、第二次の集合である物事が帰結となり、また、その第二次の集合である物事が条件となって、第一次の要素である物事が帰結となり、さらに、第一次の要素である物事が条件となって、第三次の集合である物事が帰結となる、というものもある。これを、「下降代証」と呼ぼう。さらに、両者が両立しているものを、「二重代証」と呼ぼう。いずれにしても、ここにおいては、第一次の要素である物事と第三次の集合とが飛躍的に関係し、内部で複雑な調整が行われることになる。

〈代証〉は、政治、とくに代表制において、その実例を見ることができる。それは、たとえば、政治家の方針と選挙区の思惑と国議会の政策との関係のようなものである。ここにおいては、それぞれの因果関係(利害関係)が複雑に絡まり合うのであり、非常に重要な問題である。

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