桜の下の日本人
【療養日記2024 4月14日(日)☀️】
先週はお花見に適した大事な一日を鎌倉散策に充てた。しかしその前日がインターペットで台無しにされて少し腹立たしくも思っていた。
鎌倉の桜は勢いもあって本当に素晴らしかったと思う。そして今日はそろそろ散ろうかという頃合の昭和記念公園の桜を見に行った。
Covid-19以前は毎年のように春と言えば昭和記念公園へ花見に出かけていたものだ。今年もなんとか行くことはできたが途中で酷い眩暈に見舞われて歩くこともできなくなってしまう。
何とか桜の咲いているあたりまで行くと適当な場所にデントを張って寝転びながら花を楽しんでいたがいつしか具合も悪かったことから寝てしまった。
春のポメラニアンフェスティバルの時もテントの中で昼寝をしたが、わりと疲労回復には良いかも知れない。その時にこんな写真を撮る。
テントの中から見上げた桜の写真。桜にはちらりと目をやる程度で後はお昼を食べたり寝ていたりとそんなことばかりだ。
学生の頃に上智大のピーター・ミルワード教授のエッセイを原文で読んだことがある。教授は外国人の視点から日本人の心情などを客観的に捉えては鋭く述べるその論法が面白くて結構読んだ。
そんなミルワード教授のエッセイの中に「日本人の花見」について書いたものを今日改めて思い出した。
教授は日本人ではないのでおそらくはこういった感覚で桜を愛でるのだろうとまるで宇宙人のような日本人を客観的に書いていた。教授のもっとも解せなかったのは日本人は花見と云っておきながら花なんかほとんど見ていない。桜の木の下で飲めや歌えやの大騒ぎが「オハナミ」なのかと疑問を投げかけるような論調のあと、きっとそれでも花を時々チラリと見てそれで満たされているのだろうと述べていた。
そのエッセイを読んだとき、僕はまだ十代だったのでそんなものかねとも思ったが、教授の持論では散りゆく花に自分の姿を重ねてセンチメンタルな気分になれるのが日本人なのだろうと(まるで自分にはそんな能力は持ち合わせていないような風に)述べていた。
日本人の「お花見」は日本人独特の感性で瞬時に桜を感じ、楽しみつつ別の余興をこなすことができるんだなとその頃に自己分析したようなしなかったような。とにかくミルワード教授のエッセイはそんなモノを考えるときにひとつ違った視点を提案してくれるところが楽しかった。
先程の写真を見ているとまさに自分はミルワード教授の描くような日本人になったなと思った。遠い昔、外国人が書いた英語のエッセイに描かれた日本人像にそっくり当てはまる日本人になり、その文章通りにお花見を楽しんでいる。
そしてその次に感じたのは周囲に外国人が多いことだった。純粋な日本人である我々がお花見をするようにいろんな国の人がこの昭和記念公園に集まり同じようにお花見をしている。ミルワード教授が今の様子を見たら違う事を書き出すのかなとふと考えてみた。(教授は2017年に鬼籍に入っている)
そんなことを考えているうちにすぐ横にいたフランス人やベトナム人、相変わらず言葉で国籍をアピールする中国人など、桜の花を見上げながらそれを堪能するまでには日本人よりも莫大な時間がかかっているのかしらんと思うようになってきた。
ミルワード教授の理屈に則って言えば、桜の下の日本人は無敵で、いろんな事を瞬時に楽しめるから飲んだり食べたりだってできてしまうのかもしれない。もっと言えば桜の花を十分楽しんで充実した時間を過ごし、日本人としてのアイデンティティまで再確立させた上でまた明日からも頑張れるだけの活力をそこでチャージできちゃう。これが桜の下の日本人なんだろうと自分で勝手に結論づけてテントを撤収した。
桜の後はチューリップをバックにわんこの写真をたくさん撮ったが、オランダ人や富山の人はチューリップからも特別な何かを感じ取って楽しめるのかなと変なことばかり考えていた■
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