見出し画像

自分を責めない術

【療養日記2023 1月13日(金)】

 今の病気を患ってからは殊更に自分を疎ましく思う事が多くなっていた。正直言ってつけられた名前も嫌いなら卒業した大学も恥ずかしくてひた隠しにしている。自分に自信もないしこれまでの生き様だって恥ずかしい。

 しかしこのまま自分が嫌いなままでは救われない。人並みとまではいかなくてももう少し自分自身を大事にしたほうがいいと思うようにもなってきた。そこまでの経緯にはやはり自分が嫌いになる過程も見過ごせないが、それはここで書いてもしょうがない。

 ちょっとしたきっかけで大原敬子や加藤諦三の言葉に触れる機会があり、そのすぐ後には瀬戸内寂聴や美輪明宏などの言葉とも触れるきかいがあった。さらにアルフレッド・アドラーの言葉などにも触れるようになり、そういった人の本質を自分でも言葉にしてみようと試しに書いてみるとこれが結構すらすらと出てきた。

 元は詩を嗜む趣味を持っていて言葉を編むのは嫌いではない。なので久しぶりに創作の一環として習作を作ってみた。これを「ちょっとだけ前向きな言葉」と名前を冠してツイッターで一日一つ載せ、すでに5カ月くらいは続いている。

 この「ちょっとだけ前向きな言葉」を続けているうちに自分の中にも変化が見られるようになってきた。人の本質は自分の主幹(主観ではない)から生まれ常に内から外、前の方向へと進んでいるような気がし始めてきた。

 この感覚は初めて四国巡礼をしていたときにだんだんと自分の仕事が悪事のように感じてくるような感覚と似ていた。当時僕は学習塾で働いていたが日々自分は教育者なのにこんな慳貪な会社のために何をしているのだと思うようになっていた。

 その後学習塾との悪しき縁は切れて苦労は続くが学校で働くようになっていった。

 ただしその学校での仕事が今度は自信喪失から自分嫌いへと繋がっていくのでどこの時点で良いことなのかどこからが悪きことなのかがわからないではいる。

 ただ希望の言葉や人の本質を語るような言葉を書き続けることにより最近は自己を少しずつではあるが肯定、というか容認ができるようにはなってきたと思う。そこにはこんな本質があるのではなかろうか。

自分を否定しないこと。
自分を嫌わないこと。
自分の幸福は自分の生き様によって決まる。

 自分が自分を嫌い否定したのでは他に誰が肯定してくれる。誰もいない。妻でも母でも親戚、両親でもない(僕の場合は)。他ではない自分自身が自分を嫌っては誰からも好かれてはいないことになる。誰が一人でも自分を大事にしていればそれをまねる人も出てくるだろう。

 こうして「前向きな言葉」を今日も飽きることなく書いている。今日だって嫌なことがたくさんあり、ちょっと前なら自分を責めてそれでおしまいだった。怒りのはけ口を自分自身に据えていたところがあるが、今ではそれも少なくなりアンガーマネジメントもできるようになってきたように思う。

 月曜日から入院してしまいこの「療養日記」は一時中断してしまう。代わりの日記を書く予定だがその時にツイッターで発表していた「ちょっとだけ前向きな言葉」をこちらでも紹介しようかと思う■

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?