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お遍路ウォーキング日記(168:五十五番南光坊へ ②)

【2024年6月21日(金曜日) Day 168】

 アプリ「お遍路ウォーキング」での札所五十四番延命寺から五十五番南光坊までのルートはとにかくショートカットというか最短ルートを採用している。なので当然見たこともない風景が登場する。

 昨日の日記では今日南光坊を打つことになっていたが、雨が降りウォーキングもできず。外出はしたがとうてい必要である距離は歩けなかったので札所を打つことはできなかった。

 普段は札所を打ったらその札所について簡単に書くことにしていたが、今日はもう五十五番南光坊について書こうと思う。

昨日の日記でも書いたように南光坊には他の寺とはやや異なった事情がある。

 南光坊の始まりは来島海峡を挟んだ大三島にある。6世紀に推古天皇の勅令で大三島に社が建立される。これが後の大山積神社(明治以降は大山祇神社)となる。この神社が完成する前に海を挟むために祭祀が途切れることを嫌い当地に先に宮を造り、その後に大三島の大山積神社が完成。

 大山積神社にあった法楽所24のうちの8つが当地に移され、南光坊はその内の一つだった。簡単に説明すれば大三島という離れ島に日本最大の守り神を祀る社を造り、対岸の本土にはその分社が出来、その内の一つが南光坊だった。

 神仏習合の時代、離れ島の聖地の別当寺として南光坊は本土での役目を担っていた。つまり神社でありながらも寺として地の神を祀る存在だった。このあたりがとにかくややこしい。明治以前は仏教徒と神道は同じ物と考えられ、よく似ていることからもそれぞれの習慣が融合したり、一方の要素が他方でも通用したりと色々と絡み合っていた。

 その時の寺は土地の神を神社の代わりに仏の化身として祀ることも珍しくはなく、これを本地垂迹ほんじすいじゃくと言っていた。南光坊の本尊が大通智勝如来と聞き慣れないものなのは本地の神が如来として祀られたからで、大三島の大山祇神社にも大通智勝如来が祀られていて、明治に入ってから移されている。大通智勝如来そのものは仏教の経典に存在するものだが、それがこの大三島では地元の神の化身となって現れた事になっている。

 本地垂迹に関してはこれまでの日記でも何度か触れているが、いかにも昔は神と仏の境界線が曖昧だったんだなと言うことがわかる。

 こういう仏教と神道の境界線をピシッとつけて徹底的に分離させたのが明治に始まった神仏分離しんふつぶんりで、その後国に宗教は一つでいいという考えから仏教は排斥されるようになると寺院や仏像が破壊されるようになる。この動きを廃仏毀釈はいぶつきしゃくと言う。ここまで今日は折角なので書いておこうと思う。

 話はまた南光坊について戻すが、この別当寺南光坊には弘法も法楽を上げている。その際に南光坊は四国五十五番札所に制定された。そのためこの南光坊に来る前に遍路は本家でもある大山積神社を詣でてから南光坊に向かうのであった。このあたりが昨日書いた大三島にまず向かってから延命寺へ打戻をするという話に繋がる。

 ここから先の話は明日多分南光坊を打つだろうから打ってから続きを書こうかと思う。

 今日の内容はかなり難解でお堅いものとなってしまったが、神道と仏教のかつての在り方だと思えばそんなに難しくはないと思う■



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