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お遍路ウォーキング日記(167:五十五番南光坊へ)

【2024年6月20日(木曜日) Day 167】

 今日は漸く札所五十四番延命寺を打つことができた。

 個人的な感想でしかないが延命寺はこれまでの松山のお寺と違っていつ行っても何となく暖かみを感じるところがある。十年ほど前に本堂を改装して立派に見えるが、山門から本堂までの間にある空間にはお土産屋などもあって何とも見ているだけで楽しかったし、お茶のお接待もしてもらえた。

 暫く行っていないので様子がどうなったかはわからないが本堂改装中は仮本堂が置かれて一時お土産屋がなかったこともあった。

 今日は延命寺について簡単に書こうと思う。現在この寺のある場所の北にある近見山の頂上にかつてはこの寺があった。この時は「圓明寺」という名前で、弘法がつけたものだと言う。始まりは聖武天皇の勅令を受けた行基菩薩が近見山の頂上に不動明王の本尊を安置した堂宇を建立したところから始まる。

 この寺を後に嵯峨天皇の命を受け弘法が再興させて「圓明寺」と命名した。

 明治時代の神仏分離までは札所五十三番、五十四番ともに圓明寺だった。五十三番を打つと札所からほど近い堀江の港から海路で大三島に渡り、島の大山祇神社おおやまづみじんじゃで大通智勝如来にお参りしてなら打ち戻りをして五十四番を打つ順路が一般的だった。

 大三島は言わば巡礼の中継地として遍路が通過する場所でもあった。大通智勝如来は本地仏で明治以前には神社に如来がいることもあったと思われる。また札所五十五番南光坊の本尊も大通智勝如來で南光坊は元はと言えば大山祇神社の別当寺である。これに関してはまた南光坊を打った時に書こうと思う。

 明治に入り神仏分離が行われると直接大山祇神社を参る必要はなくなり、札所五十三番から直接五十四番へ行くようになると圓明寺が二つ続くのは紛らわしいと言うことで当時からあった別名の延命寺が正式名称になる。またそれまでの間も何度となく失火で焼けて十八世紀には近見山の麓である現在地に移転をした。

 実は札所の縁起の中でもこの大山祇神社と南光坊については下知識がないとわかりづらいと思う。その南光坊もおそらく明日には打つのではないかと思う■

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