深読み:自己をならう

月一回の座禅会に参加しました。

お寺の掲示板に、

「仏道をならうというは、自己をならうなり。」

とありました。
道元『正法眼蔵(しょうぼうげんそう)』 の「現成公案(げんじょうこうあん)」の一節です。

道元は先に引用した言葉に続いて、「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と述べています。ここでいう「自己をわするる」とは、決して自分を喪失することではありません。欲望や自己中心的思考に振り回されている自分に目覚め、そのような自分から解放されることをいうのです。


ヨーガの経典「パタンジャリのヨーガ・スートラ」にもこのような詩句があります。

2章第54詩句 Sva viṣayā-samprayogē chitta-swaroopānukāra iva indriyāṇāṃ pratyāhāraḥ ǀ (スヴァ・ヴィシャヤー・サムプラヨゲー・チッタ・スワルーパーヌカーラ・イヴァ・インドリヤーナーム・プラティヤーハーラハ)
意味:感覚が世俗的な物体への傾倒を放棄し、マインドに溶け込むとき、それは感覚の引き込みと呼ばれる(プラティヤーハーラpratyāhāra)。言い換えれば、感覚は弱まり、収縮し、マインドに融合しなおす。そうすると、マインドは揺らぐ性質を放棄し、生命の力に溶け込む。感覚は、自らが無力化したことを感じると、マインドの中に避難を求める。マインドが安定にともない、感覚は弱まる。

感覚器官には、目、耳、鼻、皮膚、舌があります。感覚器官だけでは、感覚は成り立たず、感覚の入り口にすぎません。マインドには、(情報などを)処理するための意識(マナスmanas)、識別のための意識(ブッディbuddhi)、自我意識(アハンカラahamkara)、チッタchitta(記憶の貯蔵庫)の4つから構成されます。感覚器を流れるエネルギーは、感覚器が媒介することで、はじめて存在が成り立ちます。

迷いというのは、感覚が外部の物事に気を取られている、あるいは偏っている状態のことでしょう。マインド(意識・識別能力・自我意識・記憶)は、感覚の八方美人な動きにつられて、揺らいでしまいます。エネルギーは本来、真の自己に向かうべきところを、日常生活を送り、知らぬ間に、逆の方向にエネルギーが発散されてしまいます。感覚やマインドは、外界との内面との境界にあり、内外をつなぐ役割があるため、周囲や環境の影響を受けやすいのです。座禅やクリヤ・ヨーガは、感覚エネルギーの無駄な発散と、それにともなうマインド(心や意識)の動揺を鎮める行為と考えられます。

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