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何かを作り出さないと眠れないので何かを作ろうと思う

人間は何物かを作っていないとダメなのか?
人は誰かから生きていて良いですよ、と言われないと存在できないというわけではない”はず”なのであり、幸福な無産として日々を過ごしていてなんの問題もない。これは単に本人の自由に属する問題と考えられる。

僕の場合もおおむねそうであり、ベンサムのいうところの満足な豚として特に不自由なく暮らしていたのだが、そうしているうちに全く眠れなくなってしまった。
これは問題である。

眠れないといっても、ただただ眠るのを延長してしまうという感じで、ぐっすり眠ることは可能である。でもこの「延長」という感覚は、「何も作っていない」「なにも有意義に過ごしていない」という感覚からくるもので、何かしなければならないのではないかという強迫観念的なものとして私の中に表れ出てくる。

これはつまり、何かを作っていない人間は無価値であり、存在すべきでないと無意識下で考えている(もしくは刷り込まれている)ということである。
(ここで補足だが、何かを作るということはそれを他人に評価してもらうということと基本的にセットである。)
理屈の上では何も作っていない人間だって当たり前に存在して良いはずである。

だからこれは人間の欲求に根ざした感情なのかもしれない。つまりは何かを作って他人に承認されるというプロセスは、それ自体として何か人生にとっての付属物や薔薇なのではなく、米や水のように必需品であるという考え方だ。

ただここで仏教者は全くそうではないということが言う人がいるだろう。だからこの承認欲求は人間の欲求にとっては付属物であるということだ。しかしこれは環境に依存するのではないか?仏教者やそれに類する修行者は、人を避けて山にこもる。山にこもることで承認するされるというプロセスの中から抜け出ようとする。しかしこうした行動がとりもなおさず、「人間の中にいたら承認のプロセスは必要になってくる」という証左である。

承認欲求は必ずあり、それに適切に応えないとその承認欲求自体に体が蝕まれてしまう。この場合解決方法は山にこもるか、何かの作品を作ることの二択だ。

山にこもる選択はいつでも可能なので、私は何かの作品を作るということにしようと思う。


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