闘病記。その1
ある朝、マットレスをひっくり返した。自分の体の形にマットレスの表と裏が濡れている。寝汗だ。しかもすごい量だ。なんだろうか?!。最近ずっと体がだるいような気もしていた。少し不安にも思った。それに加えて何より不安に思う、明らかな体の異常もあった。
病院に行こうか、ずっと迷っていたが、そろそろ行ったほうが良いと思った。病院を調べて予約した。職場にも、勤務時間の調整をしてもらった。
キンタマが腫れている。1ヶ月、いや2ヶ月前からか。しかもたまに痛かった。そのうち治るだろうと考えていた。その考えは甘かった。
キンタマの腫れと寝汗と体のだるさ、さらに軽い腰痛も発生した。これらは体の中でどんな関係なのか。キンタマが腫れている。恥ずかしくて病院へ行かなかった。不安から目をそらしてきた。だけど、これらの身体的異変は、これ以上放っといてはヤバイと思った。自分は病院へ行くことにした。
我慢している場合じゃなかった。[キンタマ腫れる]で検索したり、もっと自分の体のことに注意するべきだった。
途中の出来事を省略するが、様々な検査の結果。精巣腫瘍という、癌の一種であることがわかった。
職場の上司に連絡した。仕事どころではなかった。「~というわけで、2、3ヶ月ていうか治るまで休みます。」手早く済ませた。元々思い入れのない職場だ。面倒くさいことにかまってる余裕なんてなかった。それでも、傷病手当という、働いている時の8割くらいのお金が、病気療養中も支払われるのは有り難かった。またその手続きの用紙等も病院まで持ってきてくれた。そこは感謝した。
キンタマを1つ失った。取ったキンタマから癌細胞を調べた結果、自分の精巣腫瘍は、セミノーマという分類であった。精巣腫瘍の中でも、比較的治りやすいという。それと腰のリンパ節に転移が見つかった。ステージⅡだった。腰痛は腰のリンパ節の腫瘍が原因だった。大きさは、7、8㎝あった。やばい大きさだった。
A大学病院。担当医S先生。病気や治療の説明があった。標準的な抗がん剤治療、ブレオマイシン、エトポシド、シスプラチンによる、BEP療法を4クール行うことになった。この病院に運命を託すしかない。そう思った。しかしそれは勘違いだった。A大学病院ではない方が良かった。当事、他の病院のことや精巣腫瘍の治療の情報が、自分には不足していた。精巣腫瘍のことを、詳しく調べる余裕がなかった。
抗がん剤治療は、つらく苦しい。最初自分はそうでもなかった。吐き気も少しだった。しかし回を重ねるにつれ、だんだん食べれなくなった。つらかったが、まあ耐えられた。
健康には自信があった。以前タバコを吸っていたことがあった。しかしだいぶ前に止めていた。タバコを止めたことは、素晴らしいことだった。お酒は飲まないし、ランニングが趣味だった。そんな自分が、入院して一日中点滴につながっている。抗がん剤の副作用で髪はなくなった。人生何があるかわからない。ある朝、病院の窓から、雨の中を歩く通勤通学の人々を眺めた。癌にならなければ、彼らのように通勤しているはずだった。不思議な景色でもあり、不思議な自分だった。
抗がん剤の副作用なのか、変な夢を見た。それは中学生の頃の先生達に囲まれて、ただ座っているだけ、という夢だ。先生達と何も会話もなかった。普通は夢の内容なんて、時間がたつと印象が薄れるものだ。だけど、その夢に限っては、頭の中で鮮明になっていった。その夢になんの意味があるのか。なぜか、自分にはわかった。
全ての学校の先生が、ではなく。自分の中学生時の先生達がそうだったんだけど。彼らは、生徒の成長や幸せのために、教員をしているのではなかった。先生達の、生活、人生のための、仕事だった。問題があったら困る。だから、生徒が、先生の言うことを聞いて、大人しくしているようにと。いつも先生達は生徒を見張っていた。中学生の頃の先生達は、そんな感じの人々だった。
大人しくしていてはいけなかった。病にはなったが、自発的に治療について、考え、行動した方が良いと思った。できる限りは何かしようと思った。
その夢を見た後から、自分は、精巣腫瘍についてもっと詳しく調べた。県外の病院で、精巣腫瘍の患者会が相談会をやっていた。抗がん剤治療の1クールが終わると次のクールまでに1週間休みがあり、病院から家へ帰れた。後々に、この1週間休みは、治療として良くない方針だったことが判明するが、その頃の自分には、気がつくことではなかった。その1週間休みの間に、精巣腫瘍の患者会に参加した。同じ病気で治療をしている人と会えた。それは心強かった。連帯感というやつだ。
A大学病院に、抗がん剤治療の続きのために再入院。看護師さんが、自分を見つけると「お帰りなさい!」と声をかけてくれた。この挨拶は、適切ではないにしても、長期入院者へのお約束の軽めのギャグだった。看護師や医者とは良い関係を築けてると、自分では思っていた。自分は、A大学病院を信頼していた。
担当看護師さんに、「B病院の精巣腫瘍の患者会に行って来た」、と告げた。担当看護師さんの顔が、ピキッとなった。回診の時、担当医のS先生が、ピキキッとしていた。
ある時、担当看護師に、「他の病院の患者会ではなく、A大学病院の患者会に参加したらどうですか」と勧められた。もちろん、精巣腫瘍の患者会ではない。他の病気の患者さん達なのだ。遠慮した。
看護師さんに、A大学病院では、今までに何人の精巣腫瘍の治療をしたことがあったのか。と聞いた。看護師さんは、「わからない」と答えた。しかし、別の看護師さんが、「精巣腫瘍の患者は2年に一人くらい」と教えてくれた。
抗がん剤の4クール目を前に、2週間の休みになった。患者会等で調べた知識では、腰のリンパ節転移の腫瘍を手術で取るのは、精巣腫瘍の外科的治療として、よく行われていた。正式名は、後腹膜リンパ節郭清術。だがこの手術は泌尿器科で、最も難しい手術の1つらしい。それだけに、後腹膜リンパ節郭清術の回数は、その病院の評価にもなると言われていた。
今現在の腫瘍の大きさを、CT検査等で確かめることをせずに、A大学病院のS先生は、後腹膜リンパ節郭清術を行うと決定した。
精巣腫瘍のセミノーマの場合、BEP療法の後、腫瘍の直径が3㎝未満になっていたら、癌細胞は死滅していることが多く、後腹膜リンパ節郭清術はしないそうだ。
S先生は、そういった医療上の話はせずに、自分に対して「やらなきゃいけないみたいだよ。」と言ってきた。自分は、「そうですか。」と答えた。
精巣腫瘍の患者会で元患者の、ボランティアスタッフが、自分に抗がん剤のスケジュールを聞いてきた。BEP療法は4クールなら、12週間で終わるはずだった。自分が「次が4クール」と言ったが、計算すると治療開始から11週間なので、おかしいと気づいたそうだ。実は、精巣腫瘍の治療経験の少ない病院では、よくあることだった。抗がん剤の副作用や、体力を考えて、クール間に休みの1週間を入れてしまう。これによって、抗がん剤の効き目が減ってしまうという。治療経験が少ないことで、副作用や合併症へのリカバーの技術が蓄積できていない。つまり、A大学病院は、精巣腫瘍の治療や、関係する医療処置について、自信がなかったらしい。
4クール目の抗がん剤治療の途中で、S先生に、「A大学病院からB病院へ転院したい。後腹膜リンパ節郭清術は、難しい手術だと聞いたから。」と相談した。S先生は顔が、ズーンとなった。
S先生にはボスがいた。G部長だ。日本人離れしたデカイ体。顔もいかつかった。クラッシャーバンバンビガロみたいな顔で、いつも若い医者を引き連れて歩いていた。回診の時G部長が、自分を睨み付けてきた。全くなんなんだと思った。
正式に転院の手続きを、具体的に手早く済ませた。G部長の顔もズーンとなった。退院するまで、看護師さん達は、変わらずフレンドリーでいてくれた。ただ看護師長さんが、自分によく話かけてくるようになった。「抗がん剤の副作用のケアは、満足頂けてますか?」とか言ってきた。看護師長さんは美熟女のスーパーウーマンみたいな感じだった。顔は笑ってるが、目は笑ってなかった。看護師長さんもお仕事大変かも知れない。けど、自分はもっと大変で、かまってられなかった。
B病院へ転院した。
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