ステレオタイプと北朝鮮 | 「偏見や差別はなぜ起こるのか」について考える #2

今日もこの本についてまとめてみます。今日はステレオタイプについて。

日常でやり取りする集団についての情報はステレオタイプに一致するものが多い為、ある社会で広まっているステレオタイプはそこで生活しているだけで容易に知識として獲得することができる。
個々の情報への接触が繰り返されることを通して、集団全体としての印象が次第に形成されていくこともあれば(例:男性医師が登場する映画やドラマを繰り返しみていると、医師といえば男性という印象が出来上がる)
集団全体についての情報が最初から集約された形で与えられることもあるだろう。(例:ある国の人たちが戦時中に残虐な行為を働いたという歴史を本などで読むと、その国の人は残虐だというステレオタイプができる)

実際の比率がどうであるかに関わらず、ある集団が何かしらの特性と組み合わせて情報として入ってくると、人はそれらの関係を知識構造に組み込みやすい性質も持っている。

このようにステレオタイプが形成されていく中では、偽の情報が組み込まれることもあるし、事実無根のステレオタイプが形成されることもある。
例えば、都会に住む人が犯罪で逮捕されたニュースを何度かみた場合、都会から離れた地域に住む人は「都会は犯罪が多く危険」と結びつける可能性が高くなる。

ステレオタイプという概念を社会科学において初めて用いたウォーター・リップマンは、ある社会集団について「私たちが頭に持っている画像 (pictures in our head)をステレオタイプとした。
それ以降、ステレオタイプの基本単位は、ある社会集団につけられたラベル(例:「子ども」)とそれに関連して呼び起こされる特性概念(例:「可愛い」「元気」「無邪気」)であり、これらが結びついた認知的構造がステレオタイプだとされている。

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ステレオタイプをこのように捉えると、本人の意識の及ばないところでステレオタイプが作用し、どんな人でも偏った見方をしてしまう可能性があることを説明できるようになる。
ステレオタイプがあることで、ある集団に関する情報を受け取った時には
、その集団に結びついた特性概念も自動的に呼び起こされるからである。

この自動的な作用に頼って、人は瞬時の判断や行動を容易に実行することもできれば、ステレオタイプの利用を抑えて慎重に反応することもできる。
例えば、「子どもは飛び出す」というステレオタイプがあれば、子どもの飛び出しを未然に防止できる可能性が高まるだろうし、「子どもはかわいい」というステレオタイプを使わないようにすれば、子どもを甘やかし過ぎることはないかもしれない。

ただし、ステレオタイプの制御は常に上手く作用する訳ではなく、ステレオタイプの存在を特に意識していない時などは、ステレオタイプの影響を自動的に受けやすい場合がある。

こういったステレオタイプは人の生活とは切り離せないものであり、そこから生まれる偏見や差別を根絶させることはできない。できることは、社会あるいは個人の中にある偏見や差別の性質を知り、加えて、偏見や差別を否定する意思を持つことで、社会あるいは個人として難しさを覚えつつも、偏見や差別を制御していくことである。

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「ステレオタイプ」と聞いた時に、私はいつも思い出す国がある。
それは、「北朝鮮」という国だ。
世界には196ヶ国の国家が存在すると言われているが、日本国内でこれだけイメージが統一されている国は珍しい。
おそらく、渋谷のハチ公前なんかで「北朝鮮という国にどんなイメージを持っていますか?」という質問を投げかけると、「ミサイル」「核」「危険」「怖い」など、ネガティブな言葉しか返ってこないのではなかろうか。
私が今住んでいる日本という国一つをとってみても、様々な人や文化が「国」というものを作り上げていて、単一的な見方をするのは難しい。
この事実を踏まえると、実態の是非はさておき、こんなに単一的な見方が浸透しているのはどこか異常な状態なのだろう。
そして、このステレオタイプはメディアの報道や他人からの情報など、外的刺激によって形成されているものだと思う。
情報を受け取る前に、「この考え方は、ステレオタイプに影響を受けているかもしれない」と少し立ち止まるだけでも、中庸を目指すことは難しくとも、極端な偏りは避けることができるかもしれない。

※ 前回のnoteはこちら


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