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真実はたったひとつ?正解かどうかを見分ける唯一の方法①

〖真実は一つだから、
その真実が正解で それ以外は不正解〗

と思っていた私。

めっっっっちゃツラかった 笑

この世の中の何かが正解で
それ以外は不正解 という考え方だと、
例えば
10ある考え方のうち
1つは正解
それ以外の9つは不正解 
という事になります。

…が、不正解の数多すぎて
無理ゲーすぎん?と思うようになりました。

だって難しすぎるでしょ!
もしマークシートが10択で
そのうち正解はたった一つだけだったら
0点を取り続ける自信がすごくある。


で、自分のした選択や考えが正しいかどうか気になる。

そもそも自分が選択した時点ですべて正解なんだが、
それが腑に落ちるまでは
どうしても自分の選択や考えが
世の中でいうところの正解かどうかが
気になっていました。


そのころの私は『正解』を求めていたわけですが
ではそもそも。
なぜ正解がいいのか?

それは、正しい道のうえにいるという安心感があるから。

安心感を得たかった。

自分のした選択が正解だったと安心したいだけ。
自分の考えが正しいんだと、
胸を張っていい気分でいたい
だけ。

ということは、
安心できる選択が自分にとっての大正解!!!
いい気分で居られる考え方が大正解!!!

となるので、実はシンプルだったりするのですが、
【何が正解なのか?】を
もう少し別角度から掘り下げてみます。

…………………………………………

少し話を戻します。

世の中の真実は一つだけ という考え方。
これが窮屈なんですよね~

有名なアニメで
『真実(しんじつ)はいつもひとつ!』
的なものがありますが
私的には
事実(じじつ)はいつもひとつ!』の方がしっくりきます。

誰かが死んだという事実。
刺し傷があったという事実。
階段から落ちたという事実。

事実(じじつ)と真実(しんじつ)は違う。

真実(しんじつ)は、人の数だけあると思います。

その人が信じているものがすべて真実。

例えば

AさんとBさんがぶつかって
階段から落ちたという事実(じじつ)があるとして。

AさんはBさんからいじめられていると信じていたら
【Bさんに突き落とされた】
のがAさんにとっての真実(しんじつ)になるし、

BさんはAさんから嫌がらせを受けていると信じていたら
【AさんがBさんを嵌める為にわざと階段から落ちた】
のがBさんにとっての真実(しんじつ)になる。


ワクチンが有効だと信じている人にとっての真実は
『ワクチンは打った方がよい』し、
ワクチンが危険だと信じている人にとっての真実は
『ワクチンを打った方が危険』になる。

それぞれの人が信じている真実があるので

ワクチン肯定派の方に
ワクチンの危険性を説いたところで
「嘘だ~、信じない」になるし、

ワクチン反対派の方に
ワクチンの有益性を説いたところで
「嘘だ~信じない」となる。

その人の中で信じているものが
揺るぎない真実になっているので、
何が真実かを解き明かそうとしても
永遠に不毛な水掛け論になります 笑 


つまりは、
人の数だけ真実があるということ。

問題は、その人が信じている真実が
その人にとって心地のよいものかどうか。

その人が信じるものが
その人にとって心地の良い選択や
その人にとって心地良い影響を与える考え方なのか。

これに尽きると思います。

選択や思考に正解、不正解はないのですが、
あえて言うとすれば。

その人が信じているものが
その人を心地よく安心させるものなら
その真実は間違いなく正解です。
もし心地の悪く常に気分を害するものなら
その真実は不正解です。

安心して心地の良い波動(心の状態)を出せるものが
信じるものとしては正解です。


またまたワクチンを例にとると、

ワクチン肯定派の方にとっての真実は
ワクチンを打つこと。
それによって安心できるのであれば
「ワクチンは安心と安全をくれるもの」という真実は
正解です。

ワクチン反対派の方にとっての真実は
ワクチンを打たない事。
ワクチンを接種しない事で安心できるのであれば
「打たない方が健康に良い」という真実は正解です。

逆の例をしてみると、

ワクチン肯定派の方に
「ワクチンを二度と打ってはいけない」といったら
不安になりますよね?
その不安状態により免疫が下がり、
波長同通の法則で不安な現実が引きよる。
ならばワクチン打った方がいい。

ワクチン反対派の方に
「ワクチン打たなきゃダメ」というのも同じことです。
ワクチン反対派の方にワクチン打ったら
打った事による不安で、その不安が現実になります。
ならばワクチン打たない方がいい。

それぞれが、自分の真実を元に行動すれば
別にワクチンを打とうが打つまいが
どっちでもいいと思っています。


その人が心地よくいられる状態ならば
何を真実としても良くて、
でもその真実は本当に主観により様々で。


他人が信じている真実が
マスコミ的に、世間的に
真実なのかどうかは
マジでどうでもいい議論で、
ただ注目すべきは
自分が信じているものが
自分を幸せにしているかどうか。


大きな病気をして
世間から“可哀そう”といわれた事実(じじつ)があるとする。

『自分は可哀そう』と思った方が心が軽くなるのならば
自分は可哀そうな人間というのが真実であり正解だし、
病気は人を可哀そうな人間にさせるものというのが
その人にとっての真実。

『自分はそれでも幸せだ』と思った方が心地よいのであれば
自分は病気でも幸せな人間というのが真実であり正解だし、
病気は人を不幸にする要素になりえないというのが
その人にとっての真実。

周りが
あの人は本当に可哀そうな人なのかどうか?
を議論しても
不毛すぎて笑えますよね。
可哀そうかどうかは本人が決めるっつー話でww


もし、病気をして可哀そうと言われて
自分は可哀そうと思った時に
少しでも居心地が悪いのであれば、
それはあなたにとっての真実ではない。
だから、信じなくて良い。

じゃあ、どんな風に思ったら心がラクになるのか。
心がラクになるものを真実として
自分の中に蓄えればいいのだと思っています。


人によって真実は違う。

自分にとっての真実は
他人にとっても真実とは限らない。

その多様性がこの世界の面白みでもあると思う。


②へ。
https://note.com/laivessere/n/nf3a4cc3092d6



【Yourself Remainder】本来の貴方自身を思い出させる人
Laivessere 主宰
Lyhyk(リヒカ) こと 宮下愛

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