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言葉の乱れというものの向き合い方

言葉の乱れというものを感じてこれかの若者が心配になる
こんな事を今ではTwitterを使って言われるのです。
が、言葉の乱れなどというものは昔から言われているもので、いつの時代にもあったものなのです。
言葉を略す、外来語からの和製英語のようなカタカナ新語、これらはその時代の文化としてあり得るものなのであります。

大正時代でいえば、サボるという言葉はもともと、サボタージュからの派生で生まれてきた言葉ですから昔からの言葉というものでありますし、これを乱れというのかどうかもまた微妙なところですが……
または段違いを略して"ダンチ"なんていう事だってあったのです。
こう見てみると今の時代だからの言葉の乱れなどというものはなく、いつの時代にもあるその時代の文化が罹るハシカのようなものであると思っていていただいて構わないと思います。

しかし、見過ごせないものもあるのです。

例えば、琴線に触れるという言葉はいちいち難しい言葉を使わないで簡単な言葉にして言い直すようにすればいいじゃないかというものです。
つまり、そういう自分がわからない言葉は使うなという言い分です。
これに関していいますと、『僕』は反対の意見を述べます。
語彙の貧困は思考の低下を招きますし、日本語の語彙の多さというのはその多さゆえの繊細さ・ニュアンスを伝えられるいいものであると考えているからであります。

ゆえに言葉の簡易化、簡素化というものは安易にするものではないという考えなのです。
新しい言葉に関しては何も言いません。
新しい言葉が例外なく唾棄されるべきであるとするのは老人の感傷主義に他ならず無視してもいいでしょう。
しかし、言葉の安易な簡素化という愚行はいただけないのです。

言葉の乱れというものを言われてしまうと、その余白を楽しめなくなるのも事実であります。
言葉というのは伝達という役割を担っていますが、自分自身、思考をする際には必ず"言葉"というものが介在するのです。
これらの事を踏まえても言葉というものを大切にするべきなのではないかと考えている次第です。
(自分がこのような散文を書いているから、余計に言葉に関してこだわりがあり気になるだけなのかもしれませんが……)

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