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集団切腹と尊厳死を老人に求める人とは

生きる価値のない人間ってどうなんでしょうか

老人を見ていたり、認知症の患者さんを見ていたりすると、なぜ日本には尊厳死がないのかなって思うんですよねと言われました。

超高齢化社会に向けてこれから日本は加速していきます。
老人も自分の選択肢として尊厳死を認めた方がいいという人も少なくありません。
ついこの前も成田さんという著名人が老人は集団切腹をするしかないという旨を動画で前に話したという事が大きく取り上げられていました。

『僕』は病院で働いていたり、若い方々と話しているとわからなくなってきますが尊厳死という淘汰はあまり考えたくはないというところです。
考えたくはありませんが、病院で働いていると認知症の身寄りのない人や不穏で暴れる人……
また、もう殺してくれよとずっと叫んでいる人もいます。
そういう人がいると少し「わからなくなる」時があるのです。

他の人はというと尊厳死を認めればいい、老人は少し死んだ方がいいかもしれないなんて過激なことをいう人も少なくありません。
では、この背景としてなぜこのような考えになるかを考えたときに、このようなことをいう人たちに質問をしました。

もし、この老人たちは家族に愛されていて、自分のお金ですべて生きる場合は?
自分たちの年金などが今の世代の人たちと同じくらいの水準で保証されているなら?と聞きました。

すると、答えはそれなら……と濁すような答え方

つまり、尊厳死や集団切腹などのような言葉は経済的な問題が解決されるならば出てはこないということ
つまりは若者たちの不公平感と不安からのものなのです。

もし、尊厳死があったら

日本でもし尊厳死があったとしたら、その選択される死は本当に自分で選ぶものでしょうか
日本という国には向かないようにも思えるのです。
この真意としては日本教という宗教を持っていて、そのドグマとされているのは「空気」だからです。

日本の世間に蔓延る空気はひとつ一方へ流れると、ひとりまたひとりと流されていき感染して行きます。
一人が尊厳死を選ぶとあの人もやったのだから……という空気に感染して死を選ぶかもしれません
果たして、それは尊厳死と言えるのでしょうか

合理性を求めた上での集団切腹と尊厳死

医療費や老人にかける税金など、または権利として存在する高齢者
しかし、合理性というものを考えた上ではあまりに生産性がないから集団切腹、尊厳死という淘汰を考えるというのはあまりにも乱暴過ぎはしないかと思うのです。
もし、仮にこの合理性での判断が善いものだとしてこれを続けていく場合、今の若い世代も合理性の判断の上での、何かの淘汰を受けるかもしれないという覚悟は必要であるということを肝に免じておくべきです。

例えば、子供を産まなかった人間には年金は支払われない。
結婚をしていない独身者は税金が多くかかるなど……
なぜならば、合理的に人間の存続を考えるならば子供がいない、結婚していないなどは重大な欠点事由になるからです。
若者たちが合理的に考えて老人を無価値だというのであれば、自分たちも合理的に何かの淘汰を受ける可能性もあるということです。

尊厳死ではなく生きるための尊厳を考える
人間は価値がないと生きてはいけないわけではないと考えています。
それが尊厳であり、この尊厳の規範は空気ではなく人間各々の主体からなる内なるものであるべきだと考えています。
生きるための尊厳を持ち続けるために

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