感想:映画『嘘喰い』は原作の面白さをまるで理解していない

実写化映画『嘘喰い』を観に行くこと自体が分の悪いギャンブルではあった。

何せ予告の時点で原作再現度の低さが伝わってきていたし、監督や主演の横浜流星へのインタビューからも悪い意味での「ヤバそう」な雰囲気は察せられた。

そんな映画『嘘喰い』を実際に観てみての感想を書いてみる。

実写化映画の2本の評価軸

映画『嘘喰い』について語る前に、まずは「実写化にとっての成功とは何か」を考えたい。

マンガやアニメを原作とした実写化映画において、評価軸は2本あると私は考える。それは「原作再現度」「映画としての完成度」だ。

「原作再現度」はビジュアル面や脚本面がどれだけ原作に寄っているかという非常に分かりやすい基準である。
対して「映画としての完成度」は少々見極めづらい。なぜなら興行収入の多さが必ずしも評判の高さと一致するとは限らないからだ。したがって「映画としての完成度」の高さを見るには興行収入の多さと世間的な評判、双方を確認しなくてはならない。

さてこれら2本の評価軸をそれぞれ縦軸・横軸として据えたとき、実写化映画が大きく4つに分類しうることが分かるだろう。

一番理想的な実写化映画は「原作再現度」が高く、かつ「映画としての完成度」も高い映画だが、残念ながらここに属する映画はあまり多くないと言えよう。筆者が観た中では『GANTZ』前編や『デスノート』前編はここに近いだろうか。

2番目に成功しているといえる実写化映画は「原作再現度」はそこまで高くないものの「映画としての完成度」は高い映画であり、ここに属する映画は決して少なくはない。
というのもマンガを実写化するにあたってビジュアルにリアリティを持たせるために改変したり、長く続いたマンガを2時間の枠に収めるために脚本を変更したりすることはある程度当然であり、むしろここが製作陣の腕の見せどころであるとすら言える。
これらの映画は一部の「原作原理主義者」とでもいうべき層にはウケないが、基本的には評判の良い実写化映画となる
筆者が観た中では、まさに『るろうに剣心』シリーズがビジュアルにリアリティを持たせたり、脚本を変更したりした上で成功している面白い実写化映画である。

次に、一般的には成功していると言い難いが、一部のコアなファンには受ける実写化映画がある。これは「原作再現度」が比較的高いものの「映画としての完成度」はイマイチ高くない映画である。
筆者が好きな『ジョジョ 第四部 第一章』などはこの例で、ビジュアルはかなり原作に寄せているのだが(あるいは寄せた結果)、世間的にはビックリするほどウケなかった。

そして残る1つは「原作再現度」が低い上に「映画としての完成度」も低い映画であり、ほとんどの観客が幸せにならない映画である。なんなら作品の名にキズが付くせいで原作者も幸せになれないし、興行収入が伸びなければ製作陣も幸せになれない。これで喜ぶのはクソ映画マニアくらいのものだ。
しかし残念なことに実写化映画の多くがここに分類される。
何を間違ったか、観た人からの評判はすこぶる悪いのに話題性のせいか興行収入だけそこそこ伸びる映画もあるが、そういった作品もここに近いといえるかもしれない。
筆者が観た中だと『テラフォーマーズ』がここに属する映画で、二度と観たくないほどの出来であった。脚本だけは原作寄りだが、ビジュアルと演出が原作から乖離している『ひぐらしのなく頃に』もここに近いだろう。
(他にもここに分類されうると聞く映画は山ほどあるが、観たことが無い映画を「クソ」呼ばわりするのは無責任なので控えておく)

どの映画がどこに近いかは人によって評価の異なるところであり、例えば脚本が原作に近い『ひぐらしのなく頃に』を「原作再現度が高い」とみなしたり、役者の演技が良くても脚本のオチが変わっている『デスノート』を「原作再現度が低い」と言う人もいるだろう。

明確に4つにカテゴリー化されるというよりは、2本の評価軸を縦軸と横軸にした平面を想像していただければ良いと思う。極端に平面の端に寄っている作品もあれば、「原作再現度」「完成度」ともに何とも言えない出来の作品、つまり評価軸の交差点あたりに位置する作品もある。

原作マンガ『嘘喰い』とは何か?

映画『嘘喰い』を批評する前にもう一つ、原作マンガ『嘘喰い』についても語らねばなるまい。(原作『嘘喰い』を知っている方は読み飛ばしていただいても問題ない)

マンガ『嘘喰い』はギャンブル漫画であり、バトル漫画でもある。「知」と「暴」、2つのハーモニーこそがこのマンガ最大の魅力だ。
ギャンブル漫画であることから「知」の勝負が見られることは簡単に想像できるだろうが、「暴」とは一体どういうことか。「暴」を代表するともいえる、作中の「賭郎」立会人を例に説明しよう。

原作における「賭郎」はギャンブルを公平に取り仕切る組織である。「賭郎」に所属する48人の会員がお互いに、あるいは非会員を相手にギャンブルを行う際、これを仲介するのが「賭郎」から派遣される立会人だ。
立会人はルールに則って中立の立場からギャンブルのジャッジを務めたり、時にはギャンブルの場やルール自体を準備したりし、最後には確実に敗者が賭けたものを取り立てて勝者に与える

さて長い歴史を持つ「賭郎」はその取り立ての確実性から信頼度があり、地位のある要人も利用している。またギャンブル好きの会員たちは時に、ヤクザなどとも大金を賭けた勝負を行うことがある。「嘘喰い」斑目貘に至っては警視長や国際的な犯罪組織とすらギャンブルをしてしまう始末。

そうした強大な相手たちから「賭郎」が確実な取り立てを行うために必要なものは一体何であろうか?
そう。「力」である。「権力」は言わずもがな、ときには実力行使で負けを取り立てるための圧倒的な「暴力」「武力」が必要となる
もちろん、賭けのルールを無視して妨害・乱入しようとする輩を成敗してルール通りにギャンブルを進めるためにもこれらの力は行使される

中立の立場からルール通りにギャンブルを進めようとする「賭郎」。それに対し自分の思うように妨害・乱入によってギャンブルを動かそうとする敵対組織。ここに「暴」VS「暴」の熱いバトルが繰り広げられるわけである。
また時にはルールの中で戦闘行為が認められるギャンブルが行われることもある。こうしたギャンブルに参加するためには「嘘喰い」斑目貘にも「暴」の力を持った仲間が必要となる。ここでも貘の有する「暴」VS敵対勢力の「暴」なバトルが始まるのだ。


もちろんギャンブル勝負、つまり「知」と「知」のぶつかり合いも魅力的だ。登場人物たちの神懸った知力には登場人物たちだけでなく読者までもが欺かれ、騙される

そんな「知」VS「知」のギャンブルに加えて「暴」VS「暴」のバトルが同時に進行したり、ときにはその「暴」VS「暴」の結果をも知略に絡めた頭脳戦が繰り広げられたりもする。
これがマンガ『嘘喰い』が他の数多あるギャンブル漫画と大きく異なる独自性であり、最大の魅力だといえる。


またマンガ『嘘喰い』を語る際にもう一つ欠かせないのが巧みな伏線の張り方、作品の構成力だ。
ここで言う作品の構成力とは、単にギャンブルの作り方が上手いことだけを指しているのではない。『嘘喰い』はストーリーが進むにしたがって、主人公「嘘喰い」勢と国際的犯罪組織「アイデアル」、そして「賭郎」との三つ巴の様相を呈してくるのだが、まず次第にこの三つ巴に向かって行く過程が見事なのだ。

一見して関係のない2つのギャンブルの間に裏で組織間の繋がりがあったり、詳しくはネタバレになるので語らないが、「嘘喰い」VS「テロリスト」の勝負の裏で「アイデアル」と「賭郎」双方の手が動いていたりして、少しずつストーリーが最終決戦に向かうための場が整っていく。各組織のトップの人知の及ばぬ知略にあっと驚かされ、予測のできない展開にハラハラし、ギャンブルと肉弾戦に手に汗握る。これもまたマンガ『嘘喰い』ならではの魅力だ。

映画『嘘喰い』のクオリティについて

では映画『嘘喰い』について、先に書いた2本の評価軸を中心に見てみよう。
なお極力、シーンの具体的なネタバレは避けるつもりではいるが、記事の性質上どこが「改変されていたか」「改変されていなかったか」については触れざるを得ないのでご容赦願いたい。


まず映画全体に関して言えば、決して酷い映画では無かった。ストーリーの流れの改変には1本の映画としてまとめるためのものとして理解できる点が多かった。
だがこの映画は致命的に原作『嘘喰い』の面白さのエッセンスに欠けている。原作と全く同じギャンブルやトリックを使っていながら(つまり原作再現度はそれなりに高いはずながら)、主に脚本と演出のせいでそれらを全く活かせていないのだ。
結果的にこの映画は、良くまとまってはいても面白さと盛り上がりに欠けた退屈な映画になってしまっている。


例えばギャンブラー斑目貘や彼の対戦相手の神懸った頭脳を表現するために原作で頻繁に用いられる手法として、読者だけではなく登場人物たちにもトリックが明かされず「ギャンブルに参加している当人同士にしか分からない何かが繰り広げられている」描写がある。

立会人ですら何が起こっているのか把握できずに勝負の終盤になってようやく種が分かり始めるといった具合で、これによってギャンブラーたちの神懸りっぷりが表現され、かつ読者はカタルシスを得られるのだ。映画『嘘喰い』の最終勝負にもなっている「ハングドマン」でも原作においてはこの手法が取られている。

ところが映画『嘘喰い』ではご丁寧に「ハングドマン」のトリックに関する伏線が何度も比較的分かりやすく提示されてしまう。そのため原作未読の観客が初見で見抜ける程とは言わないまでも、トリックに関わっていそうな「何か」は勝負前から察せられてしまうのだ。


また本作における最大の改悪は脱出ゲーム編である。原作では廃ビルから生きて脱出すれば勝利というシンプルなルールだったこの勝負。映画『嘘喰い』では2時間以内に森の中にいる九重太郎の部下5人から鍵を奪って脱出というルールに変えられているのだが、これが何を目的とした改変だったのか全く分からない。改変によるデメリットは挙げられるがメリットが分からないのだ。

まず部下5人が九重の指示をリアルタイムで受けながら嘘喰いたちを殺しに来ているのに、まるまる2時間もかかるという点にリアリティが無い。廃ビルならではの閉塞感が薄れた結果、緊迫感もまるで無くなっている。また途中で使われるあるアイテムについても廃ビルと異なり、そこにある理由付けが無く唐突に出てきたように思われる。
また使える道具の限られた廃ビルの中で繰り広げられる脱出ゲームだからこそ、九重太郎を出し抜く斑目貘の知略が冴え渡るのだが、森の中での脱出ゲームではこうした貘の神懸った知能は全く表現できていない

マンガ『嘘喰い』においては賭郎初登場の場面であり、「ルール無用」の恐ろしさが初めて表現されるこの脱出ゲームが、ストーリーの流れの変更によりその役割を果たせなくなった点については納得できる。しかしその点を無視しても、この脱出ゲーム編は知能戦らしからぬ冗長なギャンブルになってしまっており、単純に面白くない。


主演の横浜流星演じる斑目貘は原作と比べて随分と爽やかであり、原作の貘にあるような不気味さや陰湿さは全く無い。これだけなら原作再現度が低いだけで片付くのだが、ここまで挙げてきた脚本の変更によりどこがどう凄いギャンブラーなのかイマイチ伝わってこない。確かにギャンブルには勝っているし、梶ちゃんは「凄い」と持ち上げ続けているのだが、そこまで凄い人物には思えないのだ。人知の及ばぬほどの才の持ち主には見えない。

ちなみに脱出ゲームの舞台が森に、時間が2時間になっていることから原作既読勢は察せられると思うが貘の虚弱体質設定も無くなっている。これも原作においては貘が仲間(特に「暴」の力を持つ仲間)を必要とする理由の1つになっているのだが、その要素は完全に消失している。


逆に原作と雰囲気が異なってはいてもハマり役だと感じられたキャラクターもいる。

夜行妃古壱は喋り方や仕草などは原作から離れているものの「立ち会う人」らしさは良く表現されていて、かなりしっくり来た。ビジュアル面では再現度も比較的高く「原作再現度」と「映画としての完成度」双方に寄与している、この映画にとっては貴重な存在だ。

目蒲立会人も原作よりビジュアル面がかなり美化されているが、アクションシーンもあり佐田国に入れ込む独自のスタンスも見られて立会人としての魅力が十分に表現されている。
能輪立会人からの「目蒲は佐田国に肩入れしすぎ」といった趣旨の発言や自ら専属立会人に志願する態度から、原作未読の観客にも彼の独特なスタンスが伝わってくる辺りの作り方は上手い

それとかなりチョイ役ではあるが、亜面立会人のクオリティは異常に高かった。亜面立会人ファンはそのためだけでも良いので一度観に行って欲しい。


ロデムはアクション自体は酷かったが、やはりハマり役ではあった。そもそもロデムに関する要素が予告等で事前にほとんど触れられていなかったこともあり、原作ファン的には嬉しいサプライズではあった。
しかしアクションはクソである。あんな安っぽくてスッとろいアクションを入れるくらいなら、出さないでくれた方がマシだったとすら思える。ハリウッドクラスの予算が無ければカッコいい肉弾戦は観られないのだろうか……。

また本作の肝である佐田国に関しても賛否両論分かれるところであろう。演技はかなりハマっており、映画1本にまとめるための設定改変もかなり良いものであったとは思う。彼が賭郎勝負に赴く動機付けは良くできている。しかしそれによって「原作再現度」は著しく低下しているため、原作ファンにはウケない設定となっていると言える。

ほとんど喋らないお屋形様は雰囲気自体は悪くないのだが、ルービックキューブの完成スピードが遅い点は気になってしまった。特に屋形越えで1時間かかっている間、ずっとキューブを完成させずにカチャカチャやり続けていたお屋形様を思うと複雑な表情になる。


演者陣で最も「原作再現度」が低く、かつ「映画としての完成度」すら下げてしまっているのは鞍馬蘭子である。白石麻衣の演技力の問題と言うより、絶望的に役に合っていない。
白石麻衣がキャスティングされていて、予告で演技を少し見た時点で「原作再現度」を望むべくも無いことは元から分かっていた。妖艶でカッコよくて迫力もある原作の鞍馬蘭子が持つ性質は微塵も発揮されていない。
しかしそれを抜きにしても白石麻衣の鞍馬蘭子は鞍馬組の組長かつ闇カジノのオーナーには全く見えない。声に深みも迫力も無く、セリフが全て浮いて聴こえる。まるでちょっと怖い喋り方を覚えたての自称「男勝り」な女子学生を見ているようだ。
なまじ脚本の変更によって貘と蘭子の関係性が原作より縮まっており、それによって蘭子の出番が増えているだけに、彼女のシーンは観ていて非常に苦痛だった。ここにもっと演技力のある役者を据えるだけでも「映画としての完成度」は数段違っただろう。


音楽は映画の雰囲気に合っていて良かったように思う。

ストーリーの改変により、もし次回作があってもプロトポロスが無いことが事実上確定してしまった点は大変クソである。ついでにいえば迷宮のミノタウロス編も高確率で無くなってしまうだろう。大変遺憾である。


長々と書いてしまったが、まとめるなら実写化映画『嘘喰い』は光るところがあるだけに『嘘喰い』らしい面白さを失っている点が残念な映画である。ストーリー展開を原作から変えてはいても、面白さのエッセンスを見失っていなければもっと面白くできたはずだ。この映画が面白かったかと聞かれれば、面白くはないと答えるほかない。

続編が観たいか観たくないかで言えば観たくはある。しかしどうせ作るなら1から仕切り直してNetflixあたりで海外ドラマとして作らせる方が向いているのではないだろうか。「知」だけでなくムキムキな男たちを投入しての「暴」のバトルも作れるはずだ。

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