コミュニケーションは相手に正しさをわかってもらうための手段ではない
仕事で何かを伝えるとき、「なんでわかってくれないんだろう、なんで自分の言っていることがうまく伝わらないんだろう?自分の言い方が悪いのかな?」と感じることがあれば「そもそもコミュニケーションは相手に正しさをわかってもらうための手段じゃないんだったわ」と思うようにしている。
確かにコトバは便利だ。感情や状態をより正確に詳細に表現できる。でもだからといって100%万能ツールではないことはいつでも頭の隅っこに入れておきたい。
そう、あなたの言っていることは正しいかもしれないけれど、だからといってわたしの言っていることが間違っているわけでもないかもしれない。
どちらも悪くない。ただ、あなたはわたしの見ている方向から人生を見たことがないだけであり、わたしもあなたの方向から人生を見ていなかっただけのことだ。多様な見方が存在している方が自然な状態だ。
その違いを共有するためにコミュニケーションを使うと、建設的な場作りができる気がする。でも自分にとって都合の悪い多様性は、時に受け入れがたいこともある。だって自分の企画は通したいのに、「その企画どうなの?」という人や「もっと検証した方が良いと思うけど」という人が出てきたらすぐに通すことはできなくなるからだ。
だけど、自分だってどこかの見方に立てば誰かにとって都合の悪い多様性のマイノリティ側になっていることはある。大多数が「いいね!」と言っていることに対して自分は「本当にいいのかなぁ」と思う時、どうせ発言しても結局は多数決の方が通るだろうから言わないでおこう、という経験はないだろうか?
どちらが正しいか決めることが重要ではなく、この部署の中には「本当にいいのかなぁ」と思う人が1人は居るんだ、という存在を認めることが重要なのだと思う。コミュニケーションを通じて多様性を受け入れる、ということは全員を幸せにするためのメリットではなく、誰かを不幸にしないためにみんながちょっとだけ負担するものなのかもしれない。
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