散歩「長崎~茂木」2020年5月23日
岸政彦『図書室』を読み終わったら、なぜかどうしても、少し歩きたい気分になった。
そこで、3時間ぐらい歩いて丘を越えた先の漁港まで行った。
不意に始まった散歩が思いのほか楽しかったので、日記として残しておく。
大まかに以下のような経路をたどった。
画像は一部Googleストリートビューから拝借している。
1.市中心部
長崎市の中心部。
スタバがあり、ドンキがあり、みんなマスクをしている場所。
僕の家はここにある。
朝から馬に乗ったあと、昼ご飯と読書のために、喫茶店に行った。
この時は遠出をするつもりなどなく、なんとなくサンダルを履いた。
2.斜面居住地
「坂の町」長崎のイメージを作り出している町並み。
丘の斜面にへばりつくように家々が建っている。
この地域にこぢんまりとある喫茶店で岸政彦『図書室』を7割くらい残っていたところから、ひと息に読んだ。
読み終わると、外を歩きたくなった。
ただ単に、最近、外出をあまりできていなかったからかもしれない。
とりあえず少し斜面地を上がった。
長崎の斜面に家々がひしめき合っているのは、
1960~70年代の経済成長・人口増加の中で、平地の少ない長崎で市街地が斜面に拡大していったことによる。
基幹産業の担い手である三菱重工業長崎造船所は1965に初めて進水量世界一を記録した。
現在はこれでも道幅が広がっているそうだが、軽自動車がぎりぎり離合できるぐらいの広さ。老朽化した家や空き家が目立つ。
その一方で、所々に中華屋、お好み焼き屋といった外食、酒屋、小さなスーパー、床屋などがあり、かつては一つの完結した生活領域であることがうかがえる。これは次に触れる団地とは対照的。
共同井戸は10戸ほどによって使用されていた。
3.団地
歩き始めたときは、30分ぐらいで引き返すつもりだったのだが、
長崎の地形は歩けばその分、谷を見下ろす角度が変わり、違った趣が出てくるので楽しい。
丘の頂上まで上がり、海を見てから帰ろう、と思った。
丘のてっぺんには団地があった。
長崎市郊外には団地が多い。
長崎の居住地域は1960~70年代に斜面地へと広がって行くが、70年代も終わりになると、いよいよそのエリアは丘の頂上にまでたどり着く。
車で買い物に行くことを前提とした、大規模団地の登場である。
「斜面居住地の形成・課題・再生/長崎」https://www.jstage.jst.go.jp/article/uhs1993/2004/46/2004_38/_pdf
丘のてっぺんを切り取るように造成された団地では、道路幅も、一戸あたりの土地も広い。
こういった団地に暮らすのは中流以上であり、家の外観や駐車場に置かれた車がそれを物語る。
自宅で開いている生け花教室やピアノ教室の看板も見受けられた。
(再掲)
4.墓地
いよいよ団地を抜けて海を望む。
ところが海が見えると同時に、意外な光景が目に入った。
反対側の斜面は一面が墓地であった。
海が見えたら引き返すつもりだったのだが、
この風景を見て戻れなくなってしまった。
かなり下まで墓地が続いている。
コンクリートによる平面と、柵の不似合いな白さが、なんだか無機質。
隙間には、これでもか、というくらいに菊が植えられていた。
調べたところ墓地の運営は社団法人で、開設は1968年。
市中心部には江戸時代からのお寺が多数あるが、60年代の人口増加の中で、そういった市内の寺の檀家ではない人々がこのエリアの墓を求めたのだろうか。
人口増加という状況に対して、同時期に、ひとつの丘の片側の斜面には家が建ち並び、その裏の斜面には墓地が建っていたということになる。
5.段々畑
※画像はイメージ。
墓地に使われていた急な傾斜地を下りると、少ないながらも段々畑が見られるエリアに入ってくる。
サンダルでどんどん下ってきたため、足首が痛くなってきていた。が、もはや引き返すことはできない。漁港まで抜けてバスで帰ることを決めた。
段々畑で作られているのは、びわ。この地域は日本一のびわの産地だ。
畑の間を抜けるうちに、いつしか川と合流したので、以後はこの川沿いに下って海を目指した。
このあたりは、すれ違う人には挨拶するのがお互いにとって当たり前の領域だった。
川には「宝くじ桜植栽地」という碑が建っていた。
「宝くじ桜」という有り難いような有り難くないようなものは何なのか。
僕の頭では、外れた宝くじがビリビリに破かれ、桜の花びらのように舞っている映像が浮かんでいた。
調べてみると、宝くじから得られた収益を利用して全国に桜の木を植えまくっている「日本さくらの会」なるものがあるらしい。
「日本さくらの会」 https://www.sakuranokai.or.jp/
日本さくらの会は、設立以来、宝くじの社会貢献広報事業の助成を受け宝くじ桜寄贈事業を始めとして、様々なさくら植樹事業を実施してきました。これまでに全国の公園、河川、道路沿線、学校、公共施設周辺に約320万本余のさくらの寄贈植栽をしてきました。
活動報告を見ると、他にもミスコン的なことをして選んだ女性に、日本の「伝統作法」を教え、海外との各種交流事業に派遣するなどしている。
理事には衆議院議長をはじめ、自民党議員が名を連ねる「日本桜の会」。
「桜を見る会」のせいで、なんとなく”権力と桜の関係”には敏感になってしまっているので、「国の花」たる桜は、色々な物の象徴にされ、色々な装置として使われて大変だな、と感じ入る。
ふと考えてみると、その地に元々植わっていない植物を、相当なお金をかけて、景色を一変させるほど大量に植える、というのは、なかなか暴力的な行為に思える。
特に桜においてそれが盛んなのは、「日本人は桜によって四季を感じるはず/感じるべきだ」と思っている人が少なくないからだろうか。
いずれにせよ、クローンをコピーされて日本中に広がるソメイヨシノは、スターバックスばりの巨大フランチャイズチェーンだ。
6.漁港
そんなことを考えているうちに、潮の匂いがしてきて、漁港にたどり着いた。もはやゴールとしての意味しかないし、日は暮れ始めてゆっくり見ていく時間はなかった。
海の目前に、農協が建てた、びわの集散場があった。
入口の横に立つ碑は、「長崎びわ共同販売100周年」を記念している。
なんでも、100年ちょっと前に、伊達木仙一(だてき・せんいち)なる人が「茂木枇杷共同販売組合」を作って初代会長になって、びわの京阪方面への共同販売を始めたらしい。
これが伊達木仙一さん。
それまでは各家庭で栽培しているようなものだったのを一つにまとめあげるのはやっぱり大変だったのだろうか。立派な銅像建ててもらっちゃって。
終.帰宅
18時過ぎのバスが、市内に帰る最後の便。
危うく帰れなくなるところだった。
床には木の板が使われている、古いバス。
僕と同じあたりから、派手な化粧の女性が乗った。
5月のまだ明るい夕方、曲がりくねった谷を抜けていく牧歌的なバスが市内に着くと、その女性は夜の町へと出勤していった。
安心できる場所から安心できるバスに乗り、安心できない場所に行くような感じがして、ちょっとした上京みたいなものを見たような気がして、なんだか不思議だった。
でもすぐに、「そりゃキャバ嬢もバス乗るよな。土曜だし」と僕は思った。
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