みんな違う日本人


 ドイツに来た時、国籍に対する感覚が生まれた国によって全く違う重みをもっている事に驚いた。自分の国籍が不自由で出来るもんなら変えたいという人が沢山いて、ドイツではある一定要件を満たせばドイツ国籍を取る事ができるので、国籍を変更してドイツ人になった人がそこら中にいる。だからと言ってその人のアイデンティティも変えなければいけない、みたいな深刻な様子もない。
 たとえば、中国人は国籍を変えたがる。彼らのパスポートは自由に旅行することがむつかしいからだ。そういう国は他もにもたくさんあり、国によっては両方の国籍の維持が可能だ。EU加盟国じゃない国の出身者もEUのパスポートにしたがる。EU内の居住や労働の権利が得られるからだ。EU加盟国出身でも選挙権やより広い選択肢を得るためにドイツ国籍を取る人もたくさんいるし、正直、国籍変更とは運転免許を別の国の仕様に書き換えるくらいの重みしかないんじゃないかと思ってしまう。
 アイデンティティの面から語るにしてもヨーロッパは大陸なので、非常に複雑だ。政治的理由で国境線の位置が変わって国籍が変わった人、(旧ユーゴ界隈、旧ソ連界隈、新しい話だとジョージア、ウクライナの一部)、親や本人が住んでいる場所の出身じゃない、そもそも自分のアイデンティティを持つ国家が存在しない(クルド人)などなど個々のケースがあり、○○人といった時に、それが出身地の話なのか自認の話なのか、法的定義の話なのか問いたださないとはっきりしない。

 日本は島国なので外国人の流入は大陸に比べれば穏やかで、長らく日本人という定義がそう複雑にならなかったが、ここ数十年でずいぶん変わった。しかし、どういう訳だか日本に住んでいる人には人々のバックグラウンドが複雑化しているという感覚がないようだ。
 外国の背景を持ち合わせる人間に、同じ日本人として持ち上げてみたり、やっぱりあいつは日本人じゃないと批判してみたり、あいつは本当に日本人なのかと問いただしてみたりする現象を見ていると、いつも浮かんでくる疑問が、日本人という言葉にどういう定義を求めているのだろうか、ということだ。エリ・アルフィアさんに対する人々の感情とヌートバー選手に対する反応は実に真逆だった。エリ・アルフィアさん(日本国籍)からは日本人らしからぬところを探そうとし、ヌートバー選手(米国籍)からはいかに日本人らしい部分があるかを探していた。
 ヨーロッパでドイツがそうであるように、お金や力があるところに人間はあつまる。今のドイツの移民国家としての姿は多く問題も含んでいるのでこれをモデルにするべきとは言えないのだが、一つ確実に言えることは、人の流入は止められないということだ。国際的に地位や発言力がある国で人々があの国に行きたいと思われないのは社会体制がおかしい時だ。日本は自由で豊かな国で美しい。衰えてしまったとはいっても、アジアでは大国だ。人が流入してくるのは当然だ。その過程で日本人は、もうとっくに多様化していて、同じ日本人という感覚を共有するのがむつかしい時期まで来ている。日本で教育を受けていないかもしれないし、納豆は嫌いかもしれないし、日本語よりほかの言語のほうが得意かもしれない。
 多文化社会の歩き方|私は猫になりたい。|note で書いたことがあるが、そろそろ日本もあなたと私は違う、という前提で人との理解の方法を改めなければいけないのではないのだろうか。
 
 
 
 
 


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