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日本人の「移り好き?」についての一考察的つぶやき

長く異国の人と交わり、異文化の中で生活をしていると、否が応でも自らが生まれ育った地の文化について考えることとなります。日本と西洋の文化的差異についての議論は、どうにもこうにも避けようがないから。

その結果、比較文化的なテーマについて論文を書こうという妙な考えを思い立ち、日々もがいている最中なのですが、思わぬところに学びの種、思索の種が落ちていて、新しい発見につながることは、愉しいことでもあります。

 

ところで、先日山田五郎さんのYouTubeで、日本人は「移り好き?」という話が出ていました。昨年話題となったレッサー・ウリー Lesser Uryの『夜のポツダム広場 Potsdam Square by Night』(1920年代半ば) という作品についてのコメントです。

動画の中では、濡れた路面に映る光の描写が日本人に好まれるのでは?という「?」付きの話で終わっていましたが、気になったので、こちらで思うところを備忘録的に書いてみます。

 

花は盛りに、月は隈無きをのみ見る物かは。

兼好・徒然草

徒然草137段の冒頭の文です。この段で著者が述べるのは、満開の花、満月ばかりが見る価値のあるものなのか?むしろ寝床から外の明るさを感じ、美しい満月なのだろうな、と想像すること、散った桜の花びらが舞う庭を愛でること、会えない恋人をひとり想うことこそ深い情緒があるものではないか、ということです。

実物よりも見えないものを楽しむ精神、はかなくもうつろう自然を愛でる精神が日本人の思う美ではないか、と兼好は言います。

濡れた路面に反射する光もまた、虚と実が混ざり合う、うつろうはかないもの。

描かれた光景とはいえ、Uryの絵の中にそうしたはかなさを感じ取り、心惹かれるものとして現代の日本人が捉えているのだとするならば、今を生きるわたしたちの中にも、古の人々や兼好の思う美学が息づいているといえるのではないでしょうか。

 

ちなみに、兼好は鎌倉後期―南北朝を生きた人ですが、平安の王朝文化を愛し、その美学の影響が感じられる文章を残しています。彼の時代、それほど読まれなくなっていた『枕草子』の再発見者として位置づけられているのも、『徒然草』の中にその文体を真似た文章が見られることから明らかです。

室町期の歌人・正徹がこれを書写し、その時代の武家や知識人らの間で共通の教養として認識され、これがさらに江戸時代に幅広い層の間へと広まっていったのだとか。日本的美学が平安時代から脈々と引き継がれてきた系譜がうかがえます。

 

参考文献:
兼好・島内裕子『徒然草』(2010)
島内裕子『徒然草をどう読むか』(2013)

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