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伯爵のシャツ

これは私が米国で美術大学に通っていた頃の話だ。当時お付き合いしていた方と、私はルームシェアしていた。彼は、顔こそは整っていたが、美的センスに関しては皆無の人物だった。

お役立ちアイテム=カッコいい=お洒落、と考える人で、家の中はヘンテコな物で溢れ、私はちょっと困ってもいた。ある日なんかも、「ねえ見て、すっごいオシャレな物見つけたんだ!」と目を輝かせて変なベストを買ってきた。

そのベストは、一見ダウンベスト風なのだが、よく見ると、非常に安価なビニール素材で出来ている。両胸に丸いスピーカーが付いており、横のポケット部分に、当時まだ主流だった携帯用のCDプレーヤーを入れて接続すれば、胸元のスピーカーから音楽が流れ、いつでもどこでも自分の好きな音楽が聴けるという代物。$100したらしい。

早速、ポケットにCDをセットし、「かっけー!マジ最高!こんなイカしたベスト、この街で持ってんの俺だけじゃない?」的な事を言いながら、とにかくそのベストにベタ惚れしてるようだった。

「ねえ、外出ようよ。これ見せびらかしたいからさ」。私はやんわりと、そんなの着て近所を歩くのはやめて欲しいと言ったが、それがカッコいいと信じ切っている彼は聞く耳なんて持たない。

かなり嫌だったが、私は渋々一緒に外に出た。胸を張り、意気揚々と通りを歩く彼だが、通りすがりの人々の反応が変だ。しかし、「あれ何?ダサくない?」といった反応ではない。皆、すれ違いざまに「あれ?何か今聞こえなかった?」とこちらを振り返る。

そう、この変なスピーカーベスト、外で使うと、蚊の鳴くような音しか聴こえないのだ。何だか、大音量で流れるよりずっとダサい。家を出た時こそ、これ見よがしな感じで歩いていた彼だが、周囲の反応がイマイチなのと、何より音が小さ過ぎるのに、段々イライラし始める。

「おかしいな。家の中ではすっごい良い感じだったのに」。不満足に終わった散歩は10分で終了し、我々は通りから撤収した。因みにこのベスト、この一週間後、無惨にもクローゼットの他の分厚い冬服達に押し潰され、完全に動かなくなってしまう。

さて、この微妙なセンスの彼、徐々にではあるが、自分の服があまりオシャレでは無いということに気付き始める。少しずつ、私に服選びの助言を求めて来るようにもなった。

本当に着る物に無頓着な人だったので、彼が保有する最高にオシャレ服は、鉄腕アトムがプリントされた黒いTシャツと、どう見ても作業ズボンにしか見えない、ディッキーズの紺色のパンツだった。

私が通っていた大学では、生徒がより幅広い芸術に触れる機会を増やすため、ブロードウェイやオペラ、コンサートのチケットが破格の値段で提供されていた。私はそれを活用し、観たかったオペラを鑑賞することにした。

折角なので、彼も誘って一緒に行く事にした。公演の当日。では準備して着替えようという時に彼が、「やっぱり鉄腕アトムのTシャツとディッキーズのパンツ以外、良い服が見つからない」と言い出す。

我々は困ってしまった。今から服を買いに行こうにも、もう時間がない。私は何か無いだろうかと、自分のクローゼットを漁る。すると出てきた、一枚の立派なシャツ。

それは少し前、映画の撮影用にゴスロリの店で買った、胸にヒラヒラが段になって付いている紳士用のブラウス。あの、モーツァルトとか昔の伯爵が着ていたシャツだ。

「これで良いんじゃない?」と、私は彼にそのシャツを手渡す。「え?でもこれ目立ち過ぎじゃない?」と、彼も良くわからないけど、直感的にこのシャツだけは違うと勘付いている様子。

だが、鉄腕アトムか伯爵か、どちらがオペラ会場に相応しいか究極の選択をした場合、やはり伯爵のシャツに軍配が上がる。私は彼のシャツ姿を褒めて褒めて褒めちぎり、どうにか着せることに成功した。

「昔はきっと男性は皆こういうシャツを着てオペラを聴きに行ったんだから、あなたはある意味誰よりも正しい服装で今夜会場へ向かうのよ」と、私は適当な事を言い、タクシーに乗って会場へ向かった。残念ながら、パンツだけは相応しい物が見つからなかったので、例のディッキーズを履いてもらった。

会場に着いた。私は他の来場者に見られるだろうと、ある程度予想はしていたが、思いの外皆んな見てくる。何となく我々の周辺がザワザワしている。私はなるべく平然を装った。

しかし彼も流石に「ねえ、皆んなこっち見てない?」と気付いている様子。私は「あなたのシャツがあまりに立派だからよ。ほら、他の男性を見てみなさい。皆んなたかだかスーツよ。誰もここまで本格的な服装で来てる人なんて居ないんだから」、と嘘をつく。

上演が始まる。隣の男のシャツ事件なんて一瞬で忘れる程、舞台装置も歌声も実に見事。休憩時間になる。お手洗いへ立つと、相変わらず色々な人からジロジロ見られる。だが彼はもう、人々の視線の事など話題にしない。

公演が終わり、我々はアパートへ戻る。部屋に入るなり、「こんなシャツ二度と着るか!」、と彼はシャツを床に叩きつける。やっぱり変だってバレていた。

もう20年も前の話だ。今となっては、あのシャツが何処へ消えてしまったのか、覚えてもいない。

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