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白い四華の舞う焔と乾いた青い空

祖母編

 母方の祖母が亡くなったのがわたしが5歳の時。母はわたしがまだ2歳にもならない時に、甲状腺を切除する手術の為に長期入院していてその時に祖母が子守に来てくれてたらしい。わたしは全盲の祖母にずいぶん懐いていたのだという。
 祖母が亡くなった時の記憶の断片がいくつかわたしにも残っている。
 病院のベットの脇で母や叔母たちが泣いていた事。
 初七日のお膳をいただく時父の膝にのせられていた事。
 そして1番鮮明な記憶が、棺を火葬場の窯に入れた時、熱く赤いほのお四華しかの白い紙が千切れ吸い込まれていく様子だ。
 ずいぶん後で叔母から聞いたのだが、この時わたしは父に抱かさっていて、棺が火に入れられる時「おばあちゃんが!おばあちゃんが焼けちゃう!」と泣き叫んだのだという。

叔母が言う。

「それがもうねえ、みんなの涙をさらに誘ったのよお。」

 当時叔母たちはまだ中学生と高校生で学校帰りに姪っ子であるわたしの様子を見に来てくれてたらしいのだが、

「あんたはねえ、ほんとにもうかわいい子だったんだから〜」

妙齢になった姪っ子を今はかわいくないと言わんばかりの言い振り。

 そう言えば叔母たちは、わたしが3歳の頃ペニシリンの注射を打ったところが膿んでしまって病院通いした時に母の代わりに変わりばんこに連れて行ってくれていて、赤ん坊は痛ければ泣くに決まってるのだが、

「膿んだところが穴になってそこに詰めたガーゼを引き抜いて変えるんだけど、もうそれが可哀想で可哀で!」

という話もしてくれたな。

 母のきょうだいの下から3人は母とは一回り年が離れている。母は小さい頃から全盲の祖母の代わりに子守をさせられてきたせいで自分の子供の面倒を見なくてはならなくなった時うんざりしたと言ってた。
 それで妹が産まれると自分の妹たちにわたしのお守りを頼んでいたのかな。

 その3人の叔母たちはわたしと12歳くらい離れているわけなのだが、集団就職して札幌に出ていくと田舎のおぼこい娘も都会風に煌びやかになってローティーンのわたしには美人三姉妹に見えていた。
 特に3人の真ん中の叔母は南沙織に似ていたし。


南沙織似の叔母は写ってない



曽祖母編

 後妻だった曽祖母のお葬式はわたしが15歳の時。母の下のきょうだいたちは皆美深を離れていたから全員の顔を見るのは久しぶりだった。お通夜の記憶はないのだが、お葬式当日の朝、女たちは準備で慌ただしい。その後で着物の喪服に着替えるのだが女たちがお寺さんの控えの一室に集まって襦袢やら下帯やらあーでもないこーでもないと言いながら着付けをしている様は喪服ではあるのだが何やら艶めかしく見えた。そうこうして帯を結ぶという段になって父が呼ばれて部屋に入ってきた。そして父が母や叔母たちの帯を結びだした。「義兄さんに結んでもらった方が崩れないから」と誰かが言うのが聞こえた。

 お父さんが帯結べるの初耳なんですけど⁈

 父は母と一緒になる前どこぞのお姐さんの家に転がり込んでた時期があったらしい…。

 美深という田舎町にも昔花街があったのを知る…。



祖父編 

 祖父が他界したのは祖母や曽祖母よりずっと後のことだった。葬式の時、母が異母兄である伯父とその嫁と折り合いが悪かったせいで没交流になってしまっていた2歳上の従姉妹に高校生の息子がいて驚いた。自分だってそのくらいの子供がいてもおかしくないのだが、わたしは結婚とか全然考えられなかったので。従姉妹に「ジャニーズみたいなイケメンだね」って言って「本人に言わないでね。つけあがるから」とたしなめられるという暢気のんきさだった。

 母の生家のあった場所が焼き場(火葬場のことをそう言った)の近くだったので祖父の遺体を焼いている間、叔母たちと行ってみようということになった。焼き場がかいた汗も乾くほど暑かったから外に出ると真夏の炎天下なのに清々しかった。
 生家のあった場所に家はすでに無く、更地になっているところにまばらに雑草が茂ってて、やけにバッタが居たのだった。
 子供の頃従姉妹たちと蛍をとった用水路も涸れていて、涼しげだった木陰もどこにもなく、どこもかしこも火葬場のようにカラッと乾き切っていた。
 その時わたしは、大嶋家のしがらみや何やらジトジトしたものも一気に乾いたように感じて、美深という町に戻ってきてもいいような気になった。

 雲ひとつない空がやたらと眩しい日だった。


追記

 祖父のお葬式が済んだ後、伯父から相続放棄の手続きをしてほしいという連絡が叔母たちのとこに行ったらしい。既に伯父が農地も家の建っていた土地も売っているのにどういう事か?と母に聞いてきた。
 土地以外に山も持っていた事がその時発覚。その山が高速のバイパスを通す計画のあるところで売れそうだという。母は「自分は放棄しない。してやる気はない。勝手にすればいい。」と一切関わらない宣言を伯父に言い渡した後だったが、自分の妹たちには「わたしはあのバカに思うところがあるから嫌がらせのつもりで放棄しないけど、あんた達はそんなに実害を受けてないんだから自分の思うとうりにしていいと言ってある。けど、どうしたかは知らん」と聞かされた。つまり母が死んだ後、もしかしたらわたし達娘にも面倒な手続きが回ってくるという事らしい。

 ある日「あれからどうなったか山を見に行ったら木が全部伐られてて禿げ山になってたわ。」と母。
 ちょうどその頃、道産木が人気が出てきた頃だった。

 その山がどこだったのかもう聞くことはできなくなってしまった。
 あれから既に二十年ほど経っている。願わくば禿げ山が自然に帰って若木が育っていますように。

美深町を出ると広がるひまわり畑

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