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色気とはなにか。

私は色のある女と男が好きだ。目には見えないはずなのに、そこにいるだけで芳しい香りがする。

とはいえ、作られた色気は好まない。「こうすれば色っぽく見えるでしょう?」そうやって頭を働かせて生み出された仕草、言葉、態度はなんだか底が透けてみえるようで、浅はかだ。

それなら、色気とは一体なんなのだろう。

色は日常に溶け込む

先日の休みは、彼と昼過ぎまで寝坊した。明るい日差しが西に傾いて少し柔らかさを感じ始めた頃、「そろそろご飯に行こうか」と近場のファミレスへ出向く。

窓際の席に案内され、注文を済ますやいなや私は彼と自分の分のコーヒーを取りにドリンクバーへ向かった。両手に並々に入った熱いコーヒーをこぼさないように気をつけながら、席に戻るその瞬間。彼に目を奪われて思わずコーヒーをこぼしそうになってしまった。

なんてことはない。ゆっくりと傾く陽を、ブラインド越しにボーっと眺めている。ただその姿に妙な色気を感じたのだ。

携帯を手にするでもない。私の存在を意識するでもない。姿勢が良いわけでもない。この世界とは違うどこかを見つめるかのように無心な様子。

あぁ、絵になる男だ。

思わず関心した。決して、とびきりの美形というわけではないが、あどけなさの残る少年顔に鋭い瞳。一点になにかを見つめるその視線が私に色を感じさせるのだろうか。当の本人は、まったく何も考えてない。

色気とは日常に溢れる、その人間の息遣いが垣間見える瞬間に感じとるものなのではないだろうか。この時、そう深く実感したのだ。

色とは呼吸だ

私たちは一歩、外へ出れば目には見えない鎧で自分を覆う。それは緊張とか、見栄というものだけではない。

人に迷惑をかけないように振る舞わなければ。大人として相応しい態度を取らねば。など、社会が求める「理想的な大人」に擬態する。

だから完全なる素というのは、友達や恋人はもちろん時には家族にでさえ見せないこともある。

だが、人間はつねに完璧ではいられない。ふと、息切れをする瞬間があるし、むしろときどき気を抜く必要がある。私は、その息を抜いている人の姿に妙な色気を感じるようだ。

それは社会的な秩序を守る人間ではなく、本能的で無垢なその人の真の姿をこっそり覗き見するようなエロチシズムを感じるからかもしれない。物思いに耽る姿が色っぽいというのはまさにそれだろう。

普段の彼は、よほど気を使う上に他者に自分の素を見せることなく上手く擬態する。そんな彼のふと垣間見せる呼吸が、私には本当の彼の姿に思えて。そんな彼を近くでみられるのが私だけという優越感と覗き見する背徳感に少しの興奮を覚える。

色気とは、生きる人々の息遣いである。






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