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昔は手書きだった~売れてる放送作家の企画書は塩おにぎり~


手書きの1行で生まれるテレビ番組


「俺らの時代は企画書もナレーション原稿も全部手書き。企画書なんてたったの1行、これで局のやつ唸らせて、で、もう企画通ったからな」


的な話を、ちょこちょこと聞く。僕どころか、僕の両親すら若造だった頃の時代の話である。

まさに「テレビの時代」を作り上げた人たち、レジェンドのようなテレビマンたちの言葉だ。

「良い企画は3行で分かるから」

これも、よく先輩方から聞かされる話。

「細かいルールとかダラダラ書かれても、響かないものは響かない」と。3行で、もっと言えば1行でスパーンと伝わる、想像力が広がる企画こそ、良いものである。

無駄の一切ない、「シンプルの美徳」は、神格化されやすいし、しやすい。数式/公式みたいな。これは企画というものにも当てはまる。

「これ」を「こう扱ってみる」だけで、面白くなる。大ヒット番組になる。伝説の番組の多くは、そんなシンプルで美しい骨組みの上で成り立っている(のだろう)。

で、こうした話を聞いて「すげぇな~やっぱり」と思うと同時に、なぜかめちゃくちゃ悔しさを感じる自分もいたりする。それは、企画案とか、そういうアイデア出しの時に、自分が「ゴチャゴチャ書きたくなる側」だからだ。

画像で、具体的なイメージを出しますね。


売れてる人の企画案

これまで8年の作家人生で、様々な方の「企画案」を見る機会がありました。それこそ、学生の頃、放送作家のことなんか意識する前から観てたような番組に携わっている方々。1度、会議に同席しただけで「そりゃ色んな仕事できるわ…」と唸ってしまうような、優秀な作家の方々。

そんな方々の「企画案」といえば、大体こんな感じ。


もう、ほとんど言っていいほど、これ。こういう輪郭。もう「HG丸ゴシックM-PROですけどなにか?」みたいな感じです。食べ物で言えば塩おにぎり。

ま~格好いいんですよ、ホントに。

こんなに色気のない外見。だけど、綴られる1字1字に「想像を掻き立てる燃料」が染み渡っている

一気に、会議に花が咲くような企画案といいますか。なんでしょうね、不思議な。同じ日本語だけど、なんでこんなに生き生きと粒立って見えるのか、と。「時世を捉える視線」と「確約された面白さ」と「チャレンジ精神への煽り」とか、そういったものが、細くて丸い「HG丸ゴシックM-PRO」に織り込まれているような、そういう企画案。何の変哲もなく見える塩おにぎりの「塩」が、噛んだ瞬間、爆発して、脳の味覚をジャックする。

これって、いわゆる、現代版の「手書き企画書」みたいなことなんだと思うんですよ。余計な情報を一切排した状態で、心を揺さぶる文章というか。

「喫茶店のナプキンに書いた1行から全てが始まった」「流したような字でササっと書いた企画書が通った」が、令和でいうところの、「HG丸ゴシックM-PRO」なんだと思う。

で、対する自分はどうなるかというと、だいたいこんな感じになる。


「まだ通ってもない企画にサブタイトル付けんな!」
「(仮)じゃねえわ!全部【仮】だろ!」
「まずこの前提を読んでいただいて…の赤字ダルいって!」
「黄色マーカーないと、言葉だけじゃ抑揚つけられませんってか!」
「HGP創英角ゴシックUBの力を借りないとダメなんかい!」
「(仮)じゃねえんだよ」
「イメージ画像ないと情景浮かびません、ってこと?白旗?」
「苗字の旧字体めんどくせぇな」
「赤字中央揃えで最後にまとめてんじゃねえよ」
「まとめる前に始まってもないだろ」
「かっこ仮、て!」

と、まぁ、内なる自分からはこうした野次が飛びますが。

なんかダラダラと、ゴテゴテとしちゃいますね~。企画書だったら全然いいんですけど、軽い企画案の段階からこうなってしまう。

自分の場合は、かなり「画」から先行で企画が浮かぶことが多いからかもしれない。「こういうシチュエーションで、こういう感じで楽しそうにしている」という画が浮かんで、そこにルールとかをくっ付けていったり…。

から、できるだけ画像の切り貼りや組み合わせで、そうした脳内のイメージを見せてから、それを文章で補足するような企画案になりがちです。

だから、そういう意味では「想像を掻き立てるシンプルな美しい企画案」と対極に立ってしまっているでしょう。



まぁ、でも悔しいんですよ。なんか。

だって向こうの方がかっこいいもん。やっぱり。

ゾロみたいな感じじゃん、なんか。芯とか軸とかはあって、頼りになって、飾らない感じというか。対してこっちの企画案は、なんか「…なにも!!!なかった!!!…」って言わないもんね。「いやちょっと聞いてくれよ」って言いだすよ。落語みたいに上下を切って再現したいもん。


一目見て分かってたまるか!の精神

一方で、負けず嫌いな自分もいる。
ささやかな反旗を翻す自分がいる。

「3行で伝わる企画が良い企画」。

間違ってない。間違ってないけど、「文章だけみたら訳わからん企画」も、それはそれで面白いはずなんだもん。「3行で伝わる企画は良い企画」だけど、「良い企画は3行で伝わる企画」ではないから。

「一見意味わかんないこと」の中に、オリジナリティのヒントって絶対あると思う。

企画会議ではよく、こんな話になります。「良い企画は巡る」。

90年代にヒットした番組の「面白さ」。そこには「普遍的な企画としての良い型」があって、それを踏襲して新しい番組を生み出すことは、健全なことだと。

ドラマとかもそう。「ロミオとジュリエット」の時代に、人間が感動する物語の構造なんて、もう出尽くしているのだと、そんな話も聞きました。

「王道」をいかに味付けするか。その積み重ねは決して「パクり」とかそういう陳腐な次元じゃない、健全な創作。僕もそう思います。

まぁ、だけど、とはいえ、やっぱり、安直な表現ですが「見たことないもの」への渇望は絶やしてはならないじゃないですか。みんなそうだと思うけど。

そうした足掻きの一手が「言葉だけじゃ訳わからん企画」であるとは思うんです。

だから、できるだけイメージ画像を付けて、補足したい。

「画にして初めて分かるもの」「画にしないと分からないもの」「ゴチャゴチャ説明しないといけない企画案」は、「言葉だけで分かる企画案」より劣っているわけではない。そう言いたい気持ちがあります。



企画書にAI生成画像を使う時代

最近、番組の企画書に、「AIで生成した画像」を取り入れ始めました。

一気に企画書づくりの楽しさが増えました。マジで、なんでもできる。


楽しかったら鳩を1羽出すマジシャンだらけの旅番組

中型犬サイズの鳩こわすぎ



腕生えまくりキャットが主人公のEテ〇のアニメ

腕よりも目が怖い




デスメタルおばあちゃん選手権

速弾きのトモエ


「画にしないと分からないこと」を、限りなくリアルな精度で画にできる手段が、ちょうど広まり始めました。


こうなると、ますます最近はもう、「自分はこういう手段で戦っていくしかないのかな」とも思っている。


手段はあるから。もう、邪道で煩雑でカッコ悪いけど、過度で過剰な説明してでも、頭の中に近い映像をバンと出して、「荒唐無稽」にリアリティーを足してく作業。


「かっこいい手書きの1行企画」通す作家にはなれない気がする。


やっぱりまだ憧れるけど。全然、ずっと目指してはいるけど。

まぁ、でも、すぐにはなれない。

だから、いまは日々自分ができることで、配られたカードで戦っていくしかないのかもしれない。

「ゴチャゴチャ書きたくなる側」なりの戦い方で、やれることを見つけていきたいですね。









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