推しを推さなくても世界は回る。

推しを推さなくても世界は回る。当然だけど今まで気がつかなかった観点について気がついた経緯を含めて今日は話したいと思う。

ちょこちょこ話には出てきているが、私には推しがいる。まだデビューしていないがコンサートや舞台、雑誌やテレビ番組、ラジオ、YouTubeなどマルチに活動している。

そのためコンサートや舞台のチケット入手の他にも、番組録画や雑誌の購入、YouTubeの再生など、推し活とされるものも多岐にわたる。

その中で私は「推しを推すにはまずは全てを知らなければいけない」と考え、全てをまずは網羅することそれがファンとしてのスタートラインだと認識してしまった。

それからは毎日網羅のために暮らすこととなった。1番組撮り逃しただけでもファン失格なように思えて本当に心底落ち込んだ。毎日HDDの残容量とバトルしていた。

雑誌に至っても全て網羅して気に入った記事もそうで無い記事も時系列順に整理し、気に入った記事はもう一冊購入して別のファイルに整理するなど、かなり無理のある追いかけ方をしていた。

大事なのは網羅することでも自分で作ったルールに縛られることでもなくて、ただ好きで純粋に応援していればよかったのに、そんな簡単なことにも気がつかなかった。

気がついたのは入院がきっかけだった。入院している間、番組の録画はもちろん、雑誌や写真、ラジオなど様々な媒体を全て取り逃がした。

初めはすごく落ち込んだ。せっかく網羅していたのにコレクションに穴が空いた。そう、推しが大事なのではなく、コレクションすることが大事になってしまっていた。そのことにコレクションに穴が空いてみて初めて気がついた。

推しを推さなくても世界は回る。単純だけど推しに夢中になりすぎて迷走していることに気がついていなかった。推しを推さなくても世界は回るし、だからこそ私たちは推しを推さなければならないのだ。

推しを推さない世界より推しを推す世界の方が好きだから推しているのだ。どちらにせよ世界は回るなら私だけは推しを推していたいのだ。それが私の考える推しの推し方だ。

つまり、当然だけど、推しの全てを知らなくても、全てを網羅できなくても、推し方さえわかっていれば推し活はできるのだ。

以上、入院をきっかけに自分の推し方を顧みて究極的には何もしなくても推せるよなと悟った話でした。


文責  綿来すずめ

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