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【アートのミカタ】藤田嗣治 Léonard Foujita


【人物像】パリに愛された日本人

パリに生きた日本人画家、藤田嗣治(つぐはる)。
おかっぱ頭と面相筆で描いた独自の画風は、フランスで高く評価され、彼の描く裸婦人などは「乳白色の肌」と呼ばれたと言います。晩年にはレオナルド(仏:レオナール)の洗礼名を与えられ、自身をレオナール・フジタと名乗るようになります。

なぜ今、美的センスを磨くのか。どうやら世界では、サイエンス重視の意思決定では不十分だと感じ美意識を鍛える人達がいるそうです。このブログは、歴史上の偉大な画家たちをテーマに、少しでも多くの人にアート思考を築くきっかけにならないかと書いています。
まずはそれぞれの画家の特徴を左脳で理解し「頭ではわかった」状態にさせることがこのブログの目標です。あなたがその後、展示等でその画家に改めて触れた時、あなたの美的感覚が研ぎ澄まされるように。その下準備として御活用下さい。あなたの味方となり、見方を変える彼らの創造性を共有します。


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カフェにて.1948

目次
【人物像】パリに愛された日本人
【時代】明治の日本と印象派一色のパリ
【核心】繊細な線画に異国モチーフ



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自画像.1929


【時代】明治の日本と印象派一色のパリ

1886年(明治19年)現在の新宿にて、医者の家の末っ子として生まれた藤田嗣治。明治といえば日本では鎖国時代が終わり、劇的に環境が変わった頃でしょう。

幼い頃から絵を描き始め、高校卒業する頃にはフランスへ渡りたいと思うようになります。
1900年前後のフランスといえば、(前回も少し名前の上がっていた)印象派全盛期です。絵画の聖地フランスが大きな転換期を迎えていることに、当時大学生だった藤田(1905年入学、現在の東京藝術大学)も少なからず影響を受けます。

とはいえ、日本のアーティストも印象派ブームでウハウハだった最中、藤田の作風は不評だったそうです。

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アトリエの自画像


そして美術学校卒業後の1913年に念願だった渡仏を果たします。
余談ですが羽田空港が国産旅客機が初飛行したのが1962年、また日本人が海外に自由に旅行できるようになったのが翌年1963年だと言われている中、藤田がフランスへ行ったのが1913年だったと言われています。
まだ日本人が殆ど海外へ行ったことがない時代、超富裕層が独自ルートで渡るしかなかった時代に藤田は渡仏したと思うと、彼がイイトコのおぼっちゃんだったんですね。というか、藤田の先輩にもフランス留学生がちらほら(黒田 清輝など)いたようで、やはり画家を志す者はおぼっちゃまが多いのでしょうか。

渡仏直後に起こったのが第一次世界大戦です。
これにより生活が苦しい時期が続きますが、異国の地で出会ったピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの画家たちと交流して独自のスタイルを磨くこととなります。

1933年(47歳)で一度日本に帰ってきますが、しばらくするとまたフランスに渡りフランス国籍を取得(1955年/69歳)。日本人として片足はありますが、彼の画家人生に影響を与えたほとんどは、フランス産だったのではないでしょうか。画像4

公園のニーナ


【核心】繊細な線画に異国モチーフ

模索の末、藤田は日本(東洋絵画)らしさを油彩で表現する独自の画風を手に入れることになりました。
手作りの滑らかなカンバスに、面倒筆と墨で、現代の漫画のような描き方は、フランスでは見られない斬新な画風と映ったでしょう。「素晴らしい白い下地(grand fond blanc)」「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛されルことになります。

異国の地にいながら、自国らしさを上手く活用した人物と言えるのではないでしょうか。
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と毒を言いながらも
「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は世界に日本人として生きたいと願う。それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う」と残しているように。

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姉妹.1950


ここまで読んでくださってありがとうございます。
まだまだ書ききれないことが沢山ありますが、今回はここで終わります。画家一人一人に焦点を当てると様々なことが見えてきます。環境や時代の中で見つけた生き方や姿勢を、命をかけて提示してくれているんです。現代の私たちにヒントを与えてくれる画家も多くいます。それをぜひ、少しでも多くの人に知ってもらいたいです。

いつもたくさんのご支援・ご声援、ありがとうございます。