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未来の自分に贈る「生きた証」〜記事にならない人生なんてない〜 #羅針盤のつくりかた

「人生で辛くなった時に、頑張っていた過去の自分を思い出すきっかけになれば。それで、もう一度頑張ってみようって思ってもらえたらいいなって思うんです」

自分が記事を書く最大の目的を、「生きていてよかった」と思ってもらいたいからだと、柴田は言います。

合同会社LA BOUSSOLE(ラブソル)のメディア事業部部長としてこの1年半、著名人や起業家の記事を多く手がけてきました。普段は、明るくてノリの良いムードメーカーとしてみんなを和ませ、インタビュー相手から話を引き出すのも上手く、ラブソル代表2人が信頼してメディア事業部を任せています。

今回の #羅針盤のつくりかた は、メディア事業部部長の柴田が、ライターとなるまでの経緯や、「普通の人の記事も書きたい」と思いを強めた理由に迫ります。

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柴田 佐世子(しばた ・さよこ)
大学卒業後、アパレル業界や制作会社を経験。その後、ラブソルに入社し、2019年に独立。現在は、アライアンスメンバーという立場でメディア事業部の部長に就任している。感受性豊かで、取材中にインタビュイーの言葉に感化され、涙する一面もある。「記事にならない人生なんてない」と、真剣にインタビュイーと向き合う姿勢は、多くのクライアントから好評価を得ている。

「アライアンス」の立場から、新しい挑戦を続ける

ーラブソルの正社員を経て独立後、アライアンスメンバーでありながら、メディア事業部部長を務めるようになったのはどういった経緯だったのですか?

制作会社を退社後、オンラインサロンで出会った代表の由香さん・実加さんに声をかけていただいたのがきっかけですね。最初は、ラブソルが手掛けるアパレルブランドの撮影や、イベントでの会場作りをお手伝いしていました。その後、記事制作の依頼が増えて本格的にライター業に取り組むことになり、半年ほど正社員で働かせてもらったあと、独立しました。

独立後は、アパレル業界や美容業界での仕事と両立しながら単発でライティングのお仕事をもらっていたのですが、年明けのあいさつに行った時に「事業部にしちゃえば?」という提案をいただき、たった一人のメディア事業部がスタートしました。

ーラブソルにメディア事業部ができたのは、そんな経緯からなのですね。

そうですね。フリーランスとして新しい挑戦を続けていくのはいいけど、最低限の収入がないと、ただ消費される働き方になってしまう。お金の心配をしながらだと、挑戦することが難しくなってしまうのではないか。それだと、成長機会が少なくなってしまうから、ラブソルで決まった収入を確保しながら働いたらどうかとご提案いただき、単発での受注からアライアンスメンバーになりました。

いちライターとしての関係ではなく、生活や収入面での安心を与えていただいた上で、成長を見込んで声をかけてもらえたと思っています。


ー現在、ラブソルで一番の大所帯となったメディア事業部ですが、どんな内容のお仕事をされていますか?

ライターとして取材・執筆をする企業のオウンドメディア運営に加え、企画から撮影、編集まで担当するYouTubeの運営、ラブソルのクライアントさんのビジュアルディレクション、他にも小学館のファッション誌『Domani』のオンラインサロンの運営をしたり、デザイン事業部のでらみ(デザイン事業部・小野寺)と一緒に企業さんのイベントのグラフィックレポートをしています。

メディア事業部の発足時は、記事制作の仕事をいただいて書くという、本当にライターとしての業務内容をイメージしていたのですが、クライアントさんの「やりたいこと」に寄り添っていくうちに、LIVE配信や動画制作など、本当にメディア事業部っぽくなってきました。

ラブソルは事業部制を取りつつも、プロジェクトごとにメンバーが横断して動きます。なので、日々本当にいろいろなお仕事があります。

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失敗をも「個人の特徴」として捉えてくれる

ーラブソル以外の会社ともお仕事されることが多いかと思いますが、ラブソルならではの特徴はどんなところですか?

一生懸命やっていると失敗することもありますが、それを個人の「特徴」として笑い飛ばしてくれるところです。

失敗は数知れずでして…(笑)

例えばですけど、「羅針盤のつくりかた」で、カメラマンの稲垣純也さんに取材した際、話を聞いていたら何かがこみ上げて、泣いてしまったことがありました。その時は「やっちまった!終わった…!」と思ったんですよね。ライターがインタビュー中に泣くって、仕事として、社会人としてダメすぎるだろうと。それなのに、代表の2人は大爆笑してました。
失敗だと思ったことを「そこまで人の話を深く聴けるのはいいことだよ」と言ってくださり、それ以来私の特徴として、強みにしてくれました。

ー柴田さんらしいエピソードですね。代表2人とのやりとりも目に浮かびます。

今は複数社さんと事業提携しているので、フリーランスというよりはパラレルワーカーに近い働き方だと思いますが、その中でも「任せてくれる」範囲は、ラブソルは相当広いと思います。

どの仕事をするにしても人と関わるものです。なので、ビジネススキルというか、プロジェクトの動かし方・人の間でどう動いたらみんなが心地いいかなど、立ち居振る舞いは本当に勉強になります。

好きな進路を選んだものの、挫折も味わった学生時代

ー柴田さんは昔、どんな学生でしたか?

真面目な学生ではなかったと思いますが、勉強はやればできた方だと思います。高校生の時に学年1位を取ったことがあってめちゃめちゃ嬉しかったのですが、父に「一回くらい1位を取ったからってあまり調子に乗るなよ」と釘を刺されましたね。「努力はし続けなきゃダメだぞ」ってことだと思いますが、おかげで調子乗りにはならなくて済んだと思っています(笑)

その後、服飾の大学に入ってみると、「良い」の基準が、勉強ではなく、センスに変わってしまって。そこで一回大きく挫折したんですね。それなのに、折れた挙句、そのことにちゃんと向き合いもせず、ダラダラと大学に通って、最後はたったの1単位足りなくて、同級生みんなと一緒に卒業できなくなったんです。

ー今、柴田さんが取材している方々とだいぶ違うように思いますね。

みなさん、素晴らしいんですよ。ちゃんと卒業してちゃんと働くって。自分では、当たり前だと思っていることや大したことないって思っていることって、実は当たり前じゃなく、すごいことだったりするんです。

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ー次の難問は、就職ですよね。

そうなんです。少し遅れて4月には卒業できたものの、このままではニートになってしまうと思い、アルバイトを始めました。

みんなと同じように卒業や就職できなかったことは悔しいわけですよ、やはり。そんな中で、自分のプライド保つにはどうしたらいいかなって思い、同級生たちの誰よりもお金を稼ごうと、1年間という期限付きで、稼ぐことに専念しました。

最後の出勤日は、ちょうど東日本大震災の日でした。

ずっと就職することを勧めてくれていた店長は、「地震だからって今日来ないでやめなかったら、また一年ズルズルいく。待っててやるから卒業しに来い」って言ってくれたんです。無茶な話ではありますが、親身になってくれるいい店長だったと、今でも思っています。

ー店長さんの勧めもあって、次の職場に移ったんですね。

そうなんです。日本が大変だった時期でしたが、4月からレディースアパレルの会社に販売員として入社しました。立場はアルバイトだったものの、みんなと同じところに戻ってこれたと、すっごく安心しました。

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「当たり前」で終わらせずに、とことん頑張ってみる

ーお洋服が大好きな柴田さんにとって、アパレル業界で働くことは天職のようにも思えますが、実際はどんな日々だったんですか?

念願のブランドに入社が決まった時は、すごく嬉しかったです。それなのに、初めて出勤した日に、「あぁ、私の人生この10坪の店で終わるんだな」って思ったのをすごく覚えていて(笑)

ここで誰よりも結果を出す覚悟で店頭に立ったものの、服飾大学出身の私よりも売る先輩ばかりだったんです。その時、これまで勉強してきたことってなんだろう。なんの役にも立たないじゃんって思って。ちょっとふてくされていたかもしれないですね。

ーどんな人でも気さくに話しかける柴田さんでも、販売員時代はそうだったんですね。

そうなんです。だけど、そのうち結婚して仕事もやめてしまうんだって思っていたから、ここが私のラストステージなんだなとも思ったんです。

接客では、日々いろんなキャラを演じてみて、人に合わせて対応を変えていくというのをやってみたりしました。1日に何十人もの接客をいろんなパターンでやるので、どんな対応をしたらいいか徐々に分かるようになっていきました。

男の人はやっていることを具体的に褒めた方が良くて、女の人は外見のポイントだったりセンスを褒めた方がいいとか。リアクションのバリエーションは、このアパレル時代に培ったものだと思います。

ーそれは、現在のお仕事に最大限に活用されていますね! 接客以外には、どんなお仕事をされていたんですか?

当時からパソコンは得意だったので、お店のブログ書いたり、売上の入力をしたりは積極的にしていました。正社員じゃないとダメだという意識が強い家庭だったんですけど、私はここで働きたいというのもあって。アルバイトだしってふてくされていても仕方ないから、できることをどんどんやって、本社に上がるぞって思ってました。私にとっては普通のことでも、みんなにできないことってきっとある。そこを頑張ろうって。

ーその後、念願の本社に上がったんですよね。

営業として上がったのですが、どうしても洋服を作りたくて、上司に直談判して、自分の仕事をしっかり終えるから、就業時間外で企画をさせてくれと頼み込みました。自分の作った洋服が世に出て売れることはすごく嬉しくて。売れるものは良いものじゃないとダメだということは、この時に学びました。

会社って、開発と営業の真ん中がいないなと気がついて。この分断が嫌だったので、全部自分でやってみたかった。そうするとそれぞれの立場が分かるから、不満をなくすように想像して動けるんですよね。

「頑張っていた」証としての記事

ーいろんな経験を経て、書くことを生業にした柴田さんが、オウンドメディアの良さに気づいたきっかけをお聞きしたいです。


今年の6月に、大切な人を亡くしました。お葬式って、弔問に集まってくださった方々が、故人が生前どんな人物だったかを、思い出話と一緒に話すわけですよね。素晴らしい人だったと思い起こされる会話を聴きながら、どうしてその業績や言葉を残してくれるものはないんだろうって思ってしまって。同時に、他の人の物語ばかり書いて、なんで、私が書かなかったんだろうとも思いました。

ー生前に、書こうかなと思ったこともあったんでしょうか?

ありました。でも、怖かったんです。自信がなかったのもあるけど、それをしたら、いなくなってしまう気がして。だけど、実際そうなってみると、何も残ってないことをすごく、すごく後悔しました。

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そのあとですね。これまで仕事として記事を書いてきたその意味、人生を記事にすることは「プレゼント」だと思えるようになりました。

すごく頑張っていた人が、突然調子悪くなることってあるし、それを周りがどれだけサポートしても、本人が持ち上がらないとダメだ、というのも分かっていました。だからこそ、頑張っていた頃の話を残したいと強く思うようになったんだと思います。

どんな人でも、人生がずっと上手くいくことなんて、なかなか無いですよね。自分が落ち込んだ時に、青くても、ダサくてもいいから、何かが残っていれば、もう一度頑張る気力が湧くんじゃないかなって。

だから、せめてその人が所属している会社には、全員じゃなくても、それだけ慕われる人とかであれば、後世に残せる何かがあってもいいんじゃないかなって。それもあってオウンドメディアを書き続けたいと思うようになりました。

記事って何かを成し遂げた立派な人じゃないと書いてもらえないと思われがちですが、普通の人にだって一本くらいあってもいいんじゃないかって思うんです。

ー組織に属していると、会社の業績として社外に出るものはあっても、個人のものとして記事になるってなかなかないですもんね。

そう、きっと広く一般的には役に立たないかもしれないけど、会社独自の文化やそこでなら通じることもあるから、オウンドメディアに残しておくことは意味があると思うんです。仕事で得る「お金」や「やりがい」に加えて、頑張りも目に見える形に残しておく。それは、ギフトと言う意味でも。やっぱり、何より人が財産と思うんです、会社って。

だから、今後も1人でも多くの人たちの生きた証を書いて、記事として残す「プレゼント」を世に送り出していきたい。

ラブソルのメディア事業部は、オウンドメディアの記事を書くだけでは終わりません。運用はもちろんのこと、お届けするところまでやります。そんな私たちだからこそ、「プレゼント」を多くの人たちにお届けできると思っています。

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取材・執筆:小川 友希栄
取材・編集:菅井 泰樹
写真:池田 実加
バナー制作:野元 ほのか

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