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祖父母の生い立ちを聞いてみた話

出身を聞かれて「京都です」と言うと、「へぇ!先祖代々京都なの!?」と聞かれることがよくある。
「私の両親は京都で生まれ育って、今も祖父母はみんな京都にいます。祖父は西陣織職人でした」なんていう京都人っぽい答えを返すのだけど、祖父母の生まれをたどってみれば、案外バラバラだったりする。
小さい頃からじじばばっ子で、祖父母の家には父方母方ともに毎週のように遊びに行っていた。
父方の祖父母は実家から徒歩圏内に、母方の祖父母は車で15分ほどのところに住んでいて、今も(概ね)元気に暮らしている。
でも、戦前生まれの4人の詳しい生い立ちについて、じっくり聞いてみたことはあまりない。
この前帰省したとき、ふと気になって、お茶を飲みながら、これまでのことを色々聞いてみた。そこで思いがけず見えてきたのは、戦争や時代の変化の中で“生きて”きた4人の物語だった。

父方の祖父の話

祖父母4人の中で唯一京都市内で生まれ育ったのが、昭和10年生まれの父方の祖父。

祖父の父は福井の生まれだったが、末っ子で早くに家を出され、京都の西陣織の織物屋で働いた。結婚して独立し、家で力織機(りきしょっき・機械の織機)を使って帯などを織る職人に。当時は家にお手伝いさんもいたという。

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西陣織は帯がメインだが、能衣装をはじめとした着物もある。今回の帰省中、西陣織会館や織成館に行ってみた

しかし、昭和18年、その父親が病気で亡くなる。その時、5人兄弟の長男である祖父は小学2年生で、母親のお腹の中にはもう一人の子がいた。
亡くなる時父親は「お金のことは心配いらない」と言ったそうだから、まだそれなりに貯金があったようだ。

戦争が激しくなると、祖父以外の兄弟と母親は市内に残り、祖父は学童疎開。
食べるものも乏しく、戦争が終わって帰ってきた頃にはガリガリだったそう。
(「戦争は無茶苦茶や」、と祖父が言った。)

さらに大変なのは、戦争が終わってからだった。
家族や家こそ戦火から免れたものの、戦後の貨幣価値の暴落で一家はほぼ一文無しに。力織機も戦時中の金属供与で失っていた。
(「戦争は無茶苦茶や」、二度目。)
祖父の母親が手織り機をなんとか手に入れ、西陣織の仕事を始めた。

手織り機。といってもジャカードという経糸を上げ下げする装置はついている。江戸時代はそれも無いので、人が織機の上に1人乗って糸を上げ下げしていたそう。

祖父は小学校高学年頃から母親の仕事を手伝い始め、中学を卒業すると、昼間は一人前に働き、夜に定時制高校に通ったという。(ちなみに、祖父の行っていた高校の全日制のほうに、私は通っていた。同じ母校!)

祖母と結婚すると、力織機を購入。機械の織機とはいえ、まだまだ手作業が多かった。
例えば、織物の図柄データを紙に落とし込んだ「紋紙」。厚紙に穴があいていて、経糸の上げ下げを指令するようなものだ。
一枚の帯を織るのにこの紋紙が何千枚も必要で、そのセットなどが大変だったそう。

紋紙の指令に基づいて経糸が上げ下げされ、経糸の上に横糸が通ったところが模様になるという仕組み。

その後、データがフロッピーディスク(懐かしい!)に入れられるようになり、だいぶ楽になったらしい。
(私には祖父がフロッピーディスクを使っている記憶しかなかった)
ちなみに今の西陣織でも、かなりの割合でフロッピーディスクが使われているそう。

祖父は75歳まで西陣織を続けた。
祖父母の家の半地下にある工場(こうば)に入ると、中はひんやり涼しく、織機がガッチャンガッチャンと大きな音を立てて動いていて、私は帯が織りあがっていくのを眺めていた思い出。
祖父は小指だけ爪を伸ばしていて、器用に爪を使って糸のほつれを直したりしていた。

織っている時直接見えているのは裏側。下に鏡がついていて、そこで表の模様をチェックしながら織り進める

祖父の引退後、織機は工場から撤去された。
息子(私の父)は学校の教師になったが、そのことをどう思っているのか祖父に聞いたら、織物の仕事は大変だから継がせたくなかったそう。そういうものかもな、と。

今、工場はバイクの写真が飾られた祖父の趣味部屋になっている。
お祭りなどの地域活動にも精を出しながら、ツーリングを楽しむ日々を送っている、かっこいいおじいちゃんだ。

現在の工場の壁にはバイクの写真


父方の祖母の話

昭和14年生まれの祖母の故郷は鹿児島だ。
今ではすっかり京都弁だが、たまに同郷の人と電話で話している時には鹿児島弁が聞こえる。

祖父母の玄関にはいつも、祖母が活けた花が飾られている。センスが素敵なおばあちゃん

祖母の一家は、父親の仕事の関係で一時期長崎に住んでいたが、昭和19年、軍港は危ないからと、両親の実家がある鹿児島へ戻ることにしたそうだ。(翌年のことを思うと…ひいおじいさん、ありがとう…)

祖母の父は、衛生兵として若い頃から海外の戦地へ赴き、軍医とともに負傷兵の治療にあたっていたという。
一番長くいたのはシンガポール。毎晩のようにひどく傷ついた兵隊さんたちが運ばれてきて、麻酔も打てない中、怪我の治療をしていた。
丸20年医療に携わっていた祖母の父は、戦後、医者としての道も勧められたものの、「もう人間の治療はしたくない」と、役所勤めになったそうだ。
たまに近所の人が飼っている牛の手術をするなど、ボランティア的に獣医のようなことはしていたと、祖母は言う。
「釘を飲み込んでしまった牛のお腹を切って、釘を取り出して、またきれいに閉じて。牛の胃袋が4つあるって、その時初めて知ったわ」

戦後、食べ物はなんとか手に入ったが、周りは畑を持っている人ばかりでうらやましかったという。

高校を卒業した祖母は、兄が働いていた縁で京都へ行き、織物屋に就職。
事務の仕事をしながら、織物の仕事は見て必死に覚えた。
「聞いても教えてくれへんし、言葉を間違えたらからかわれたりして、京都の人はいけずやなと思ったわ。ご近所さんとかはみんな優しかったけどね」
(ここで「京都人はいけず」の登場!)

西陣織と一口に言ってもいろんな種類や織り方がある

お見合い結婚して、仕事は辞めて専業主婦になるものと思っていたら、祖父が借金をして力織機を購入。
そんなわけで、60歳まで祖母も家での西陣織の仕事を続けた。

生まれてきた息子(私の父)の世話は主に義母(私の祖父の母)が担い、祖母は忙しく仕事をする日々。
姑や舅との同居生活というのも、想像すると大変そうだが、(「しょっちゅう家に大勢の人が来て、そのたびに大鍋でごはんを作った」とのこと)祖母の大らかな性格のおかげで平和にやっていけたんだろうなと思う。

「どんな仕事をしてたの?」と聞いたら、「西陣織ってほんまにごちゃごちゃした作業が色々とあるねん」と言うので、西陣織会館に行ってみると、糸繰りやら経糸の準備やら、織る作業に取り掛かるまでの工程が沢山あってびっくり。

分業しているところも含めて、果てしない工程。かかっている手間がすごい

そんな忙しい日々の中でも祖母が好きで続けていたのは華道。
結婚する前から毎週のようにお花のお稽古に通い、師範の免許を取ってからは自宅で数人を教えていたそう。
今も、近所の神社の手水のところにお花を活けたりしている。

今年の正月の神社ではこんな感じ。かっこいい!

最近は、お友達とごはんに行ったり、パン教室に行ったり、裁縫をしたり。
誰とでも仲良くなれる、明るいおばあちゃん、これからも好きなことを楽しんでほしい。


母方の祖父の話

母方の祖父は、父方の祖父と同じ昭和10年生まれ。
出身は京都府の北側、日本海に面した舞鶴だ。

画家である祖父が描いた、福井県高浜町と舞鶴市との境に立つ青葉山(若狭富士とも)。祖父の故郷の風景。

海軍の拠点が置かれていた場所でもある舞鶴で、祖父の父は軍の書記官をしていた。
絵が得意で、舞鶴の景色もよく描いていたそう。大砲の位置なんかは、わからないように消していたとか。

祖父は男ばかりの5人兄弟の末っ子。
歳の離れた弟をかわいがってくれていた一番上の兄は、ビルマで戦死したそうだ。
2番目と3番目の兄は、小学校の先生に。戦後、父親が職を失ってからは、この2人のお兄さんが家計を支えたそう。

戦後は舞鶴に満州やシベリアから帰ってきた人たちがたくさんいて、子どもも多く、先生が足りないくらいだった。
3番目のお兄さんは、戦中通っていた高等学校(戦後は大学になった)はお金の関係で辞めざるを得なかったそうだが、当時そんな状況だったので、講師を何年か勤めれば先生になれる仕組みだったようだ。

祖父は末っ子としてのびのび育ち、朝釣りをしてから学校に行ったりしていたそう。
4番目のお兄さんと一緒によく絵も描いていたという。
その4番目の兄は、東京の大学で美術を学び、絵描きに。進駐軍のアメリカ兵の似顔絵をよく描いていたらしい。

祖父も絵を志し、京都市内の大学で美術を学ぶ。
卒業後は大阪や京都の高校で美術教師として働いた。

京都の植物園でのスケッチをもとにした絵

最初に勤めた養護学校(現在の特別支援学校)で祖母と出会い、結婚。
2人で名曲喫茶に行ったこともあるそう。
「レコードを買うお金も、飲みに行くお金もないから、コーヒー一杯で夜中まで名曲喫茶にいて、クラシックを聴いてたんや」とのこと。青春か…。
新婚旅行に行かない代わりに、レコードプレーヤーとカメラを買ったらしい。

先生をしながら絵も続けていた祖父。結婚当初に住んだアパートでは、広い方の部屋を祖父がアトリエとして使い、寝室は4畳半しかなかった…と祖母がぼやいていた。

教師を20年勤めたのち、祖父は絵一本で生きていくことに。(ちなみに、祖父が退職金で娘(私の母)に買ってあげたアップライトピアノを、私も使っていた。)

祖父が主に描いていたのは版画。
個展を開いたりするほか、カレンダーの絵なども仕事として頼まれていて、季節ごとにいろんなところに出かけてスケッチをする日々だったそう。
一年ほどイタリアに住んで絵を描いていたこともあったり、祖母の退職後は夫婦で全国にスケッチ旅行に出かけたり。

イタリアで見た風景、イタリアの公園の像、買った人形や本、拾った松ぼっくりなどなどを組み合わせて世界観を作っている祖父の絵。好き。

祖父の絵は、風景画もあれば、風景とモチーフを組み合わせた幻想的な絵もあって、私も大好き。
祖父のアトリエには、いろんな場所のスケッチや、描きかけの絵、旅先で買った小物や拾った貝殻なんかもあったりして、小さい頃から好きな空間だった。
アトリエに入るといつも、今描いている絵の説明をしてくれた。

いろんな発見が楽しい祖父のアトリエ

私の伯父はファッション誌などのカメラマンなのだけれど、芸術家の祖父の影響はかなりあるようだ。

87歳になった祖父は、体力が必要な版画は難しくなったようだが、油絵などを描き続けている。
認知症がちょっときているのだけど、できるだけ長く、アトリエで筆をとりつづけてほしいなと思っている。


母方の祖母の話

母方の祖母は、昭和9年、鳥取県の米子の生まれ。
6人兄弟の4番目で、読書が大好きだった。(私のなんでも知りたがるところはおばあちゃん譲りだと思っている。)

祖母の本棚(の一部)。幅広いし、色々とアツイ!

祖母の父は鉄道の機関士をしていた。
戦争中は、父や兄・姉は米子に残り、母親と、祖母たち下の兄弟は父親の実家がある田舎へ疎開。
「畑仕事ができないことで田舎の子どもにからかわれたり、住まわせてもらってた家の女中さんがおっかなかったり…疎開生活は大変やった」そう。

戦争が終わり、父親も機関士を引退して駅舎での仕事をするようになり、ようやく生活が落ち着きそうだった時、父親が倒れてしまう。
祖母の父が亡くなり、母親が駅の売店(今でいうキヨスク)で働くようになると、中学生だった祖母も学校帰りに店番を手伝うようになる。
そろばんが得意で、店の商品の管理などは祖母が担っていたそうだ。
(ただ、お客さんにいらっしゃいませ、ありがとうございましたと頭を下げるのは好きになれず、「将来、客商売だけはやらん」と思ったとのこと。なんだか祖母らしい)

高校の成績が良かった祖母だが、「大学に行くお金はないし、卒業後は就職かな…」と思っていた高3の冬。すでに学校の先生として働いていた姉や、東京で働いていた兄が、お金を工面してくれることに。そこから猛勉強し、京都の短大に進学することができた。
(短大時代も、月末は米子に帰って売店の帳簿締めをしていたそう。)

大学で国語の教員免許をとった後、就職したのは、ちょうどその年に開校した大阪の養護学校。(正確には、肢体不自由児のためにできた盲学校の中の特殊学級が養護学校になった)
当時、障害のある子どもは家にずっといることも多かった(義務教育でもなかった)中、いち早くそうした子どもたちへの教育を実践していた。
祖母はその後も約40年、大阪や京都の養護学校で教鞭をとった。

養護学校で教え始めた頃の祖母。貴重な写真…!

「若い頃はうたごえ喫茶に行ってロシア民謡を歌ったり、労演や労音もよく行った」と祖母が言うので調べてみると、当時は、シベリア帰りの人たちが持ちこみ、関鑑子らが和訳して広まったロシア民謡が流行っていたそう。
労演=勤労者演劇協議会や労音=勤労者音楽協議会は、労働者たちが公演を企画して劇団や音楽家を招くような活動で、今も市民団体として残っているもの。

養護学校では、祖母は小学部、祖父は中学部だったが、当時盛んだった組合活動なども仲良くなるきっかけの一つだったよう。
「結婚前年の写真」と見せてもらった写真には、安保批准反対と障害者教育の充実のプラカードを掲げる祖父母の姿。芯があるなぁ。

祖母が退職する時、教職員組合の集会で若い先生たちに見せた写真らしい。とりあえず色々すごい

一時期大阪に住んでいた祖父母だが、息子(私の伯父)と娘(私の母)が生まれ、京都へ引っ越す。
京都に姉夫婦と母親が住んでいて、子どもの世話を頼みやすいというのもあったそうだが、その頃大阪では大気汚染がひどくなり、私の母も喘息になったりして、そうした公害から逃れるためという理由もあったようだ。

私の母も、私の妹も学校の教師になり、なんだかつながっているなぁと思う。
今も国内外のニュースをしっかりチェックし、読書や調べ物もよくしている祖母。(私が北海道に転勤になってからは、北海道の歴史や文学をよく読んでいて、いろいろ教えてくれる。)
探究心を持ち続ける祖母の姿は、いつまでも私の憧れだ。


さいごに

遊びに行くといつも優しく出迎えてくれて、私たち孫の話をニコニコ聞いてくれるおじいちゃんおばあちゃん。
けれど、今回私が話を聞く側になってみると、4人それぞれ、生きてきた道のりがあったことを実感した。
時代そのものが激動だったから、おそらくこの年代の人はどんな人でも深い物語があると思うのだけど、祖父母から直接聞くことで、より身近に感じたところもあったと思う。まだ聞きたいこと、学びたいことは尽きない。

おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう。まだまだ元気で長生きしてね!

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