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深夜のピアノを弾くうさぎ

「え、やだよ」
ユイはカズの提案に対して抗議した。
夜中に大学を探検してみないかという
カズの悪戯心とわんぱく笑顔に押されていたのだが、ユイは怖いものや面倒なことが大嫌いで、バスタオルを頭から被って体育座りをしたまま動かなかった。

ユイとカズは同じ大学の同級生。
緑豊かすぎてアミューズメントなものは
全く期待できない町、いや村に大学は存在した。
1回生から交際が始まり、
3年目にして一緒に住み始めて半年が経つ。

「ええー、行こうやぁ、
な、ちょっとだけでいいから」

ちょっともクソもあらへんやろ、
なーんで夜中の大学なんかに好きこのんで行かなあかん?
明日の授業に差し支えるから寝たいんやけど!
1時間目てば、私はレッスンやぞ?

カズは少し拗ねた顔をして、
えー、行きたいなぁあ、こんな経験なかなかできへんしなー、とチラチラ私をわざとらしく見る。

わかった!行きゃいいんやね‼️
その代わり2時までに帰るよ!
明日一限からワタシはレッスン!
めっさ大事な授業‼️落としたら留年‼️

ハルヒの如く腰に手を当てて立ち上がり、
ユイは靴を足で拾うように履く。

やったー!

後ろを振り向くと満面の笑みのカズがいた。この笑顔にいつもやられるんだ。

竹林に沿うように小道が畝る。
大学の裏口に繋がる道はここしかない。
あとは正門を横切るなど、
守衛さんと挨拶を交わすようなハロゲン灯の光の道だ。
「ユイ、お前足速いな」
あったりまえやろ、
早よ帰りたいんじゃ私は。
ザクザクとした二人の足音だけが響く。

竹林を抜けると噴水の広場に出る。
広場を囲うウォールマリアのように、
音楽棟の練習室が扇形に広がる。
電球が等間隔で仄々と光るが、薄暗い。
昼はピアノや管楽器がごちゃ混ぜに鳴る
騒々しい場所だが、深夜ともなるとこんなに表情を変えるのかと新しい驚きがあった。

音楽棟を抜け、真っ暗な他学科棟が林立する道へと出る。
澄んだ空気、昼の喧騒とは打って変わった静寂。これも音楽だな。無音と言う名の。
黙って中指と薬指同士を繋いで私たちは歩く。

「さぁ、ここからやで」
はぁ?と私は返した。
校舎に侵入するカズ。
辞めとき、マジで辞めとこ、怒られるて!
カズは私の言葉も聞かず、
「しーっ」と口に指を当てて大教室の棟へ入って行った。

「部屋はさすがに開いてないなぁ」

「当たり前やて…
なぁ、もう帰ろうよ、段々真っ暗なってるやん…」
ひよるユイ。

「あ!小窓みっけ!」とカズは足下にある天袋サイズのドアを開けようとした。

「重いのかな、これ」とユイは笑いながら、カズが昔書いた作品の言葉を誦んじた。
「よう覚えとるな」と言いながら、めいっぱい窓を引っ張るカズ。

窓が引き摺れた大きな音を立てて開いた。

「うわー、この教室は初めてや」
「いや、アンタ普通に学校来てへんしな」

その教室は、一般教科や教育実習で使う大きなホワイトボードを中心に扇形に広がる大教室だった。
端にピアノがある。
非常口のライトだけが照らす足元の中、
私たちは階段をゆっくり降りて行った。
ピアノの蓋は開いていた。

「な、なんか弾いてや」とカズが言う。
私はソの音を人差し指で鳴らしてみた。
さすが真夜中、吸収媒体もなく、
反響しまくりで耳が折れそうになった。

「これ、あかんて!守衛さん飛んできてやばいやつやん」

「ええやん、その時は逃げたら」

ええことないし!捕まったら始末書や停学もんやで?ちょー、辞めようって‼️

カズは言うことも聞かず、レットイットビーの冒頭を片手で弾きはじめた。
ユイは演奏系学科なので、その伴奏を即興でつける。鍵盤和声が得意なユイには朝飯前だ。
「やるやん」と、にやっと笑うカズ。
ユイを椅子に座らせて「試験曲どうぞ」とカズはグランドピアノに頬杖をついた。
ユイはため息を吐き、
まぁカズが喜ぶなら仕方ねぇか、と
ショパンの「タランテラ」op43を弾き始めた。
狂気を感じるような両手半音階の下降や、
舞踊的リズムの追い込み、僅か3分59秒に緩やかさの一つも挟まれない強烈な音楽は、反響しまくる大教室に脳漿を揺らす如く響き渡った。
弾きながら味わう隙もない、
間断を許さない音の嵐だった。

演奏が終わったあと
階上から拍手が聞こえた。
「ユイちゃんー!カズくーん」と
同じ寮のカオリが手を振った。

ユイの課題曲が聞こえたから、ユイやと思ってたー!と彼氏と一緒に私たちの元に降りてきた。
深夜の音楽会よなー、と妙な再会をする4人で笑った。
「何してる!誰だ!」と守衛の声が響き渡り、
ここ、開いてるから!とカオリが大教室の内部ドアを開ける。
私たちは守衛よりも早く真っ直ぐに逃げた。

非常階段から隣棟に繋がる廊下を渡り、
ようやっと地上へ足を下ろせた時、
頭上には大きな満月が照らしていた。

満月のもと、竹林を抜けたらば
耳をそよぐような静けさがあった。

先ほどまでの音の嵐を
全て塗り替える静寂に
4羽のうさぎは ただ月を見ていた。