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「私は典型的なASDなのか?」

ASDというものを知ってから、診断されたあとも定期的に自問自答していたこと。
私は本当にASDなのか?
本当は違うけどそのように見えるだけではないのか?
もちろん実際にはスペクトラムであり、グレーゾーンでも相対的に周囲との違いが大きく感じられることもあるのかもしれない。
前提として、私は医師からかなりスムーズにASDの確定診断を受けるような人間ではある。
でも正直なところ、こだわりや常同行動のような診断基準には当てはまらないといえば当てはまらないような気もするし、感覚過敏も本当にひどい人と比べたら大したことないような気もする。
確かに対人関係でスムーズにいかないことは多かったから診断を受けたけれど、職場環境が変わった今は問題がなくなったりもしている。
努力不足ではなく「違い」によって説明できることが救いになっていて、
「私は本当にAS(D)の基準を満たしているのか?」という問いの答えが死活問題のように感じられることもあった。
※困り事がなければD(障害)が付かないASという性質を持った人になり、性質は生涯変わらないらしい。
※このnoteでは日本で普及しているASDという単語を使うが、意味合いとしてはASまたはAutistic peopleに近い場合があります。

「典型的なASD者」と思える人を見ると自信がなくなることがあった。
たとえばテンプル・グランディンは、世界一有名なASD者とされている動物学の教授だ。
共感できることも多いけれど、私は彼女のように優秀ではないし、視覚思考もそこまで強力ではないように思える。
一方で、言葉を話し出したのは1歳ごろで彼女(3歳)よりも早く、わりと平均的だったようだ。
他にもいくつかの実在のASD者の話を読み、深く共感したり、自信をなくしたりを繰り返していた。
もし本当はASDではないとしたら、私は何に属する人間なのだろう。
私はどのカテゴリーのメンバーと言えるのだろうか。

ものごとをカテゴリー分けして、それに属するそれぞれのメンバーが本質を備えていると信じることを「本質主義」と呼ぶらしい。
ある本(*)を読んだとき、私はしばらく本質主義にとらわれていたことに気づいた。
19世紀にダーウィンの理論が知られるようになる以前の世界は本質主義に支配されていた。

本質主義はこのように説明されている。
以下、
*リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる』
より引用する(改行と太字は私が勝手に加えています)。

“動物種はそれぞれ、神によって創造された理想的な形態を持ち、その種を他の種と区別する決定的な性質(本質)を備えていると考えられていたのだ。
理想からの逸脱は、欠点か事故によるものだと見なされた。”(p.264)

“ダーウィンにとっておのおのの種は、概念的な分類項、つまりそれぞれ異なりながら本質を持たない独自の個体の集合だったのである。
イヌの理想像などというものは存在しない。
存在するのは、多様なイヌの個体の統計的な要約なのだ。
いかなる特徴も必要にして十分ではなく、個体群に属する個体の典型ですらない
個体群思考と呼ばれるこの考え方は、ダーウィンの進化論の核心をなす。”(p.265-266)


世の中に全く同じ生物は存在しない。
生物は何度も同じことが繰り返されているのではなく、いつも偶然による大小の変化に見舞われている。
その変化の積み重ねが、大きな多様性に繋がっている。
変化があることは欠点や事故ではなく、種全体のバッファーとして作用する。環境によってある変化は利点となり、適応となる。
現在の生物学の基礎となる考え方だ。

ところで、ダーウィンの進化論の考え方をドイツに広めたのがエルンスト・ヘッケルという生物学者であった。
生物は一つの共通祖先を持ち、環境に適応しながら変化を重ねていったというダーウィンの進化論について、ヘッケルはより直線的な考え方をしていたと思われる。
一つの共通祖先から理想的な頂点に向かっているという考え方だ。これは個体群思考ではなく本質主義に近いと思う。
ヘッケルは理想的な人間像があるかのような表現をしており、優生学やナチズムに繋がったとも言われているらしい。
表面上同じように聞こえるが、本質主義と個体群思考の導く結果には大きな違いがある。

実際のところ、人間という個体群は他の動物と比べたら誰もが人間であると言えるが、一人として同じ人間はいないし、誰か一人が「典型的な人間」と呼べるわけではない。
肌の色や身長や脳神経タイプ、性格など、様々な個性のバリエーションを持つこと自体が特徴の一つであり、人間という種にとっての利点となる。
糖尿病など病気とされる状態も進化のデザインの産物だったりする。
基準枠があり、それに沿って個体が存在しているのではなく、バラバラに存在している個体に概念の枠を便宜上無理やり当てはめているのだ。
理想的な人間像は実在せず、実際には統計的な要約、傾向があるだけだ。

そう考えると、ある面から見れば私はASDの性質のいくつかを備えているのは確かだろう。でもやはり典型的なASD者ではない。
また、誰か1人を見てASDというカテゴリーを十分に説明できるわけではないし、私にしか説明できないようなこともあるはずだ。

ASという性質は現在では脳神経の多様性の一つと考えられ始めている。まだ賛否両論あるのだろうが、私は脳神経タイプは治すことができない自分そのものだと感じるのでこの考え方を支持している。
生物学に人間を当てはめれば、脳神経タイプの多様性は適応の原動力にもなる。
ヘッケルや一昔前の多くの医師たちが考えたような「人間の理想像以外を欠陥とみなし」安楽死や虐殺をしてきた過去に対して、「人間の定義を広げる」動きだと思う。
人間として根本的な欠陥があるとか、欠点や事故ではなく、ASの性質も人間のバリエーションの一つ。
診断名やカテゴリーはそのためにあるべきで、その中で誰が一番理想的で、典型的なのか悩むことは本末転倒だったと思う。

統計的な要約がなければ語ること自体が難しくなる。
でも要約することで見過ごされることもある。
ASDというカテゴリーで見ると、それ以外の性質がないかのようなシンプルな状態に感じられやすい。
逆に細部やカテゴリーの外に注目しすぎると、適切な言葉が存在しないかのように複雑に思えてしまうこともある。
恐らくカテゴリーや言葉で語るということは、私にとってこの葛藤の繰り返しなのだと思う。

こうやって細部にこだわって悩むことは、側から見たらASDらしくておかしいかもしれない。

一つ一つのものごとの細部を不完全でも言葉にすること、そして不完全でも他者と分かり合える瞬間があることも忘れないようにしたい。
最近noteやTwitterを介して、その密度が高まっている気がしてとても嬉しく感じています。


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