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ニューロダイバーシティについての希望と憂鬱

私の眺めるTwitterでは最近ASDとカサンドラ症候群が話題です。
どっちが被害者かどっちが苦しんでるかなど色んな意見が出てます。
細かい議論はさておき、どうしても悲しいという気持ちを書いておきます。

私はASDなので、気になることをとことん調べ尽くして理解していくのが好きです。
それが「特性」らしい。
だからASDについての本もどっさり読んだし、ネットでも見つかる限り論文や色んな意見を読みまくった。
悪口に思えるようなことばっかりで、どうやって生きていけばいいのか、直せるのかわからなくて病んだ。
取り組むべき課題が多すぎる。
今までの人生なんだったんだろう、と。
多分これは大人になってからASD診断された人の多くがぶつかる壁だと思う。
そんななか海外の「自閉症」についての本を読んだら、「ニューロダイバーシティ(脳神経多様性)」について知れて、そこから元気を取り戻した。
無理に直そうとしなくても受け入れてくれる場所で生きればいいんだ。
海外のASDの人はとても堂々と、素直に生きてると思った。
人間として、「特性」を迷惑がられたり、嘆かれると悲しいのは当たり前なんだと思えるようになった。
悪口みたいな意見を見ると、頭ではわかってもいつも胸が痛む。

でもTwitterにあるのは「成熟したASDになれば受け入れてあげよう」という圧力だと思う。
歩み寄りのポイントを決めるのはやっぱりどこまでも多数派なんだろう。
検索して勝手に傷付くのは未熟だから直さないといけないとか、
誰かの愚痴を、自分ごとととらえるのが悪いとか。
光や音にも敏感なように、ネットの言葉も一つ一つ受け取ってしまう「特性」があるってことはないのかな?

自分1人が我慢したら平和になる。
それが最適解だと思ってる人が多いと思う。
確かに周りを見たら、自分を責めて感情をなくせば平和になるよ。
100人に1人の変わり者だからね。
でもASDの人は、そう思って黙ってる優しい人たちだと私はわかるよ。
実は情緒的共感が過剰かもしれないという研究もある。
でも悲しいのを無視してたら本当の気持ちもわからなくなるんだよ。
怒ることはそんなにいけないこと?
少数派だけは迷惑をかけたらだめなの?
ちょっと変わってるだけの人になったら受け入れてもらえるのはわかるけど、その折り合い方でずっと生きていくの?
ロボットみたいなキャラでいくの?
潰れるまで我慢してきた少数派のために、多数派が少しずつ気を付けてくれる道はないの?
ほんの少しでも大きな変化になるんだよ。
多数派が一言ずつ減らしてくれたらマシになるんだよ。
彼女(彼)たちの存在まで否定したいんじゃないんだよ。
公開セラピーで偏見を撒き散らす人たちは苦しいんだからと許されて、偏見の侵食に苦しむのは許されないのはなんでだろう。
共存のしかたはもう決まってるのか。

自分を責めるより怒って伝える方がまだ健全だと思い、私はいつも冷静に怒ってる。
我を忘れてるわけではない。
優しくて傷付きやすいはずの人が誰も傷付けないように黙ってるのを見るのは何より悲しい。
少数派が我慢して作られる平和より、くだらない小競り合いの方がいいくらいだと、
Twitter見ててずっと思ってた。
侮辱されても怒る人があんまりいないのは、もう感情を忘れてしまった人が多いからじゃないのかな。
言葉を一つ一つ正解に大事に使いたい人たちが、この偏見の海で平気そうにしてるのはおかしな状況だと思う。

お互い言い過ぎたら謝って、少しずつ折り合いの道を探るのがニューロダイバーシティではないのかな。
許される形がもう決められてるならニューロダイバーシティなんてクソだ。
人間動物園と大差ない。
誰かのための檻から出て、自分らしくいられる人が増えてほしい。

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