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ASD由来の希死念慮が消えた話

"誰かの居場所を奪い生きるくらいならばもう
あたしは石ころにでもなれたならいいな"

昔はよくこんな気持ちになっていたことをふと思い出した。米津玄師の「アイネクライネ」の歌詞です。

私は小さい頃、自分が世の中に存在すること、食べたり話したりすることで、他の生物や自然や誰かを傷付けるのだと思っていた。
牛乳の飲み残しを流すと、水が汚れて地球がダメになるかもしれないと思っていた。
ASDで例に漏れず学校に馴染めない、友達ができない子供だった。積極的にいじめられることはなかったし、友達がほしいというよりは自由にしていたかったけど、孤独感や不安は感じていたと思う。
10代の頃はノートを鉛筆で真っ黒に塗りつぶしたり、死にたいと埋め尽くした日もあった。
誰とも分かり合えない。
迷惑ばかりかけてる。
結構冷静に自分は世の中にいない方がいいだろうなと考えることがあった。(もちろん子供らしく楽しいこともあったけど)

それがはっきりと変わったのは20過ぎくらいの頃、何かのきっかけでリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という有名な本を読んだおかげだと思う。
生物は遺伝子の乗り物に過ぎないこと、
生物を作る遺伝子は一つ一つが利己的に生き残り複製しようとしているだけだということ、
その理論で人間の道徳や利他行動も説明できることを知った。
ダーウィンの進化論とそれを補強する利己的遺伝子論は、世の中の全てを説明できるような強力な理論だ。
私のなかの利己的な遺伝子は、遠い昔の祖先から受け継いできたものだ。自分だけのものじゃない、大切にしたいと感じた。
その頃から「私は生きたい」という本能をはっきりと認められるようになった。
自分の存在を強く否定せず、生物の自然な姿として肯定するための理論を見つけた。
理性的に死ぬべきだと考えていたけど、実際それは得策ではない考え方で、狭い視野とバイアスに囚われた主観でしかなかった。
確かに私が奪う命もあるけれど、私が消えたところで世界は変わらないだろうし、世界は私が思ってたよりもっと柔軟で巧妙にできてる。
きちんとした理論を元に、生物はそれぞれの役割をそれぞれに果たすだけでいいんだと思った。
誰かが「あるべき世界」のことをトップダウン的に考えるより、ボトムアップ的にそれぞれが生きようとして協力したり競争したりすれば、自ずと世界は形作られていくのだと。

それから10年ほど過ぎた。まだ少しずつ科学の本を読んでいる。自分を含む世界が、どう構成されているか以前よりはるかに理解しつつある。科学の本にはネットにあるようなバイアスや感情任せの言葉もないし、理路整然としていている。
生物学を通して見ると、機械仕掛けの閉じた世界ではなく、あらゆるものが連関しあい、広がりながら収斂していく、有機的で美しい世界がある。

個別の事象としては悲惨なこと許せないこともたくさんあるけど、世界をより正確にとらえられるようになった今、何も絶望することはないと思える。
統計的に見ると直観に反して、人間の社会も昔よりずっと道徳的で衛生的になっているし、
(※ネガティビティ・バイアスにより人間は社会の悪いところばかり見てしまう)
人は昔より言葉で分かり合えるようになって、見た目が違う人を差別することも減った。
違う言葉や感覚の人と繋がるツールも増えたし、繋がりは爆発的なペースで増えている。
昨日理解できなかった誰かのツイートが、今日は理解できたりする。きっとこのツールがなければ想像もしなかった誰かの考えが。

ASDに対する差別はまだまだ感じるけど、これも時間の問題で理解が広がるはずだと考えている。
もちろん黙っていて広がるはずはないけど、発信する仲間や機会は増えつつある。
私たちの努力にかかっている。
その価値がある世界だと思う。

こうやって過去と未来、自然や世界との繋がりを常に考えられるのは自閉症的な感覚らしい。
ASDで環境保護活動家のグレタ・トゥーンベリのような人もいるし、ASDには他にも環境保護や動物愛護家が多いらしい。
私はこの感覚を誇りに思う。
そのせいで悩んできたけど、そのおかげで今は自分の存在を認められている。
私にずっとあった自己否定感は、科学という強力な理論武装を手に入れて大転換し、ちょっとやそっとで揺るぎそうもない自己肯定論に変わった。
私はポジティブになろうとしているのではなく、世界を正確に見ようとしている。
それは思ってたより悪くない世界だった。

前回の記事に載せたASDに否定的な「カサンドラ症候群」の根拠は、これに比べたら吹けば飛ぶほど軽いはず(ウェブサイトのみらしい)。迷ってる人にはその道は踏み込まない方がいいよと忠告したい。
本当は誰のことも傷付けたくないけど、それは無理なんだなと開き直っている。だから好きな価値観を共有できる人にだけ言葉を届けたい。

私の発達過程がこのような状態なので、カサンドラ症候群を肯定する世の中の言葉が、悩むASD児の「一押し」になる懸念があることも書いておきます。

どうか誰もが自分を大切にできますように。
それぞれの居場所(または生態学的地位)を見つけられますように。

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