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アートは何のためにある?

「アートは不要不急⁈」

アートをテーマにした社会人勉強会に継続して参加していますが、今年はこんなキャッチコピーが目に飛び込んできました。
アートは何のためにある?という問いは、古今東西永遠のテーマです。
さまざまな角度から、それぞれの仮説や視座を得て、表現者は何かを磨き上げて表し、鑑賞者はその何かを味わいます。
近年の現代アート作品の中には、「何のために?」というコンセプチュアルな部分が武装的と言えるほどに強化されたキャプションや記事も見受けられます。

リーマンショックが起きる手前の2008年2月、森美術館で「アートは心のためにある」というキュレーションが行われました。
「心のためにある」と銘打たれていただけに、私は意識的に心を研ぎ澄ましながら多くの作品と向き合い、特にお気に入りの作品の前では、心がストンと納得して満足感を得るまで、じっくり鑑賞を繰り返しました。
時間の観念も忘れて、ノンバーバルの内に魅力的な作品群との深い対話を実感することができ、その後の鑑賞スタイルを変える体験となりました。

昨今、巷にはさまざまな芸術鑑賞方法が編み出され、学芸員だけでなく対話型鑑賞ファシリテーターなど、アートと鑑賞者をつなぐ活動も増えています。
また、経営者はアートを学ぶべき、といった論調やアートシンキングも根強く支持を得ています。
「どんな視座から芸術に向き合うか」を探る試みは、自分自身の心の在り方を問い直す作業にも繋がっているのです。

つい先日参加した、事業創造クリエイター・臼井清氏のアートコースでは、キュレーターの入澤日彩子氏が企画された、マステアート作家西村公一氏によるホスピタルアートの事例が紹介され、アートが空間や記憶を変える力について考えました。
来年に入り、コロナショックから脱した頃には、アートは不要不急?という問いすら薄れ、また新たな感覚から芸術を味わうトレンドが始まるのでしょうか。
そんなわくわく感を大切に、表現者として、また鑑賞者として、アートが「みんなのためにある」感覚を追い求めてゆきたいと思います。

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