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あへあ

まだ完成してないですけど、完成しても面白くないですが。見てくれるなら嬉しい。

千工ソン一々ソ

朝マックを食べながら北方面に親とドライブをした。

万SAI堂へ寄る。先日マキマというキャラを知り、可愛いと思ったのでマンガコーナーでチェンソーマンを探す。

アニメ化のおかげか結構大きめのコーナーを取ってあった。アニメ化に対する作者のコメントを見た。

買うことにしました。

4巻まで買って観たら、まあ、めっちゃ面白いね。やっぱり何十年も作品が出来続けると、展開や設定が似たようなのばっかりになる。でもチェンソーマンは小学校の時にコロコロからジャンプに移ったときのような、すごいワクワク感があった。

待ちきれないので2日後の今日、11巻までの7巻分買ってきた。

途中で寝落ちしたが読み切った。最高ですわ。見開きがクソかっこいい。陳腐な展開にもならなかった。

そのあと5chの実況まとめでチェンソーマンの反応を観た。

MAPPAがアニメ化してくれるそうだから、観れるくらいの時間を取るために勉強進めておかないとな。



空理空論ニュー・カマー

最近、評論やネット上の議論に関して第三者側で参戦(spectator)することが増えてきて、無矛盾性やソースの確認が癖付いてきた。

これは自分にとって大きな変化である。感覚でしか生きてこなかった不合理者が、合理性を求めるようになってきたのだから。

感覚的思考回路を今更論理的にしろと言われても難しいと現代文や英文をまるで理解できなかったバカタレが自分から変わっているのはいいことか。いいことだろう。理詰めによる「逃げ道を塞いでボカン」はレスバトラーなら誰もが夢見る正統論破。僕とて例外じゃない。

知識武装は心がけているが、それを有効に、最大限利用できる論理武装が足りない。

そこで買ってきた。野矢茂樹の論理トレーニング101題ィダィィダィィィ(ECHO)

関係ないけどラッセルの幸福論は格式高い製本だけどそれ程難しくなく、病み癖が和らぐのでオススメ
自分で表現できないものを明文化されるだけで気が楽になる

前から欲しいなあと思っていて、ブックオフに売っていたので買いました。












ビヨンドレブリミット・オン・ジ・アウトバーン

9月まであと5日と12時間。

これまで立てた計画を全て倒してきた、最近数週間の勉強時間は0。業人である。アッァッァ

また立てても破るんだろう、という経験則は嫌いだ。今の自分は破る気でいるが未来の自分のことは昔にならないと断定できない。

計画を立てるのは大好きでねェ…未来の自分にやらせるとして、また計画を立てさせてもらうヨ(ヌチュルリ)

               ワ ラ
2020年6月21日20時17分 ”業人“、破顔ゥ

2022年7月末まで
課題図書月2冊、読書月2冊
課題図書は勉強するべき本、何度も読んで書き起こすような、教科書的なもの。
8月課題図書は上記の「論理トレーニング」「幸福論」。
読書は知識を軽く入れるためのもの、深く読む必要はない。
8月の読書は林修「受験必要論」、ビートたけし「間抜けの構造」。

イラストとピアノ、N-back
これは勉強の気分転換程度、ただ毎日やること。
N-backは効果があるかわからないがやってみる。面白いので。


2022年3月末まで
受験科目基礎の完成
基礎は国立二次レベル、東大過去問は時間無制限で解ける程度。


2021年12月末まで

受験科目の修了
受験で使う科目の範囲を全てやっておく
国語(現代文,古文,漢文)、数学(I,II,A,B,余裕あればⅢ)英語、社会(世界史,地理)、理科(物理,生物)


2021年11月末まで

語彙の完成
英単語、イディオム、その他教科の語彙に関して詰まることなく使える程度。

高卒認定試験合格
去年はサボりましたが、今年は行きます。


なぜ受験に化学基礎を選ばないのかというと、mol計算が一生できなくて死んでいるからだ。中学校のイオンから化学分野をやっていないので化学を受験に使うのは不可能。

計画や予定を守るどころか破るのに躊躇しなくなった自分にとって、このなかなか厳しい計画は無視してしまいたくなる。

まあ無視したらしたで次の計画立てればいいし。そのまた未来の自分に押し付けるだけだな。



理想へ

これは難しい話だ。

何か心地よいものを感じるときがある。それは曖昧な景色だったり、感覚だったり、全く明確ではなく、いつでも思い出すことはできない。

それを幼稚園から見続けている。観えるとき、感じるときは不定期だ。

近いものは、知らない世界へ飛び込むときのワクワク、物語のような恋愛、地平線まで広がる、白い花の多い花畑

それそのものは全く明確に把握できないが、それに近い音楽や感覚は「あれに近いな」と認識する。

昔から未来と”それ“を同一視してきた。自分の将来に期待を抱いていたのもこのせいだ。


何か気持ち悪いものを感じるときがある。それは重力が変で、きれいな白い平面が汚される映像だ。「汚される」が曖昧で理解できないがとにかく気持ちが悪い。

その壁に体がぶつかりにいくも、ぶつかる直前で正気に戻される。

大抵一回で終わらなく、数回連続してそれを観る。

観た、とはっきり覚えている一番古い記憶が幼稚園だ。40度の熱が出たときだった。よく観るときは、熱が出た時の夢の中だ。


前者と後者、共通するものが、近いものが「夢」であること。

以下、前者と良、後者を不良とする。

小学校で観た良と不良が中学校ではあまり観なくなった。曖昧ではなく、より現実的な夢や幸福を持つようになったからだ。不良も、殴られたり理不尽だったりが嫌なこととはっきり理解するようになったからだ。

中学校後半になって自分は幸福に満たされなくなった。客観的に見れば随分と騒いでいたし、課題もサボって遊んでいた。悪いことだけではなかったのは理解しているがなぜか苦しくなったのだ。

不良は崖から落ちた夢にゲームで何回も負けたときのイライラを合わせたような不快感。

苦しみは嫌なことから嫌な気持ちの部分だけを搾り取って黒いヘドロが覆い被さってくるような感覚だ。

日に日に強まっていった。何故嫌になったかの理由だけ忘れ、嫌な気持ちだけ積み重なっていくから、何故と聞かれても自分に答えようが無かった。空っぽになった気分になったので、自分の体の動くままに従った。めちゃくちゃなことをする自分を観せられているようで楽しかった。

高校に入って2ヶ月目、疲れたので中退することにした。
家で暴れることもしたが、ずっと静かな家にいると嫌でも考えることをしてしまう。

考えに考え、苦しんで正気を得た結果、過去の罪悪感に振り回される。

そうして疲れ果てて寝ると良のような夢を観る。

自分はずっと置かれている場所が嫌いだった。昔から全く自分の行為も意図も理解してもらえない。将来が良からかけ離れていった。だから明確ではないが、何か今の常識ではなく、全く違う世界を望んだ表れなのかもしれない。

成長するたびに現実が迫り、自分に正直な感情の起伏が減った。将来へ希望など持たなくなった。生に縋る気持ちが薄くなって考えが虚無主義的になった。

だからこそ良のような夢を観出したのだろう。現実の良い世界に裏切られたのでまた現実逃避しようとしているのだろう。

悪い話ではない。死んでしまえば夢は観れなくなる。つまり夢を観るためには生きている必要がある、間接的にでも生に執着できる。

もう現実をたくさん知ってしまった、現実に良はない。

僕は抜け殻になって夢へ住みたい。

不可能なことはわかっている。だから夢日記をつけている。

僕は昔から夢に同じ場所が何回も出る、夢オリジナルキャラもいる。空港の真横の露天風呂で巨人と戦い、銃撃が止まない街でゆっくり横断歩道を渡り、女友達の一軒家へ向かう。

おかしいのはお前らだ。現実で常識を語るんじゃない。

夢日記で把握した夢の友達と現実で遊ぶ。空想に大量の時間を費やした僕には余裕だ。

そうして下らない現実で暮らす時間を減らしていって、自分の理想の世界を築けたら良いなと思っている。

頭のいいやつは自殺か現実逃避している。適当に生きて死を待つのもあるが。

他人を操れやしない。森羅万象操作できやしない。陳腐な現実の常識に生きて何の楽しみがあるんだ?

考える力は恐ろしい。自己実現の欲求の末路は、現実への絶望だ。

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