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[懐疑] 僕以外の人間は意識が存在しないのではないか? ~哲学的に考えた結果~

こんにちは!
今日はもともとあった予定が
無くなってしまったのでまた、
記事を書いてみようと思います。

今回は、「人間の意識について」
個人的な見解を話します。

「人間の意識について」

1,懐疑主義
2,自分自身の意識以外は存在するのか?
3,懐疑からの気づき

1,懐疑主義


僕は大学で心理学を専攻している。
とある科目で哲学的な話題が出た時に、
懐疑主義という概念を知った。

(僕自身も勉強中なので、
 大まかに聞いてくださると嬉しいです。)

懐疑主義(かいぎしゅぎ)は、知識や信念に対して疑いを持ち、それを検証する立場や態度を指します。これは哲学、科学、宗教、政治など様々な分野で見られます。

Chat GPT4.0より一部引用

そして、懐疑主義の「方法的懐疑」

方法的懐疑(方法的懐疑主義)とは、ルネ・デカルトによって提唱された哲学的方法で、全ての信念を一度疑いの対象とし、確実な知識の基盤を見つけるためのプロセスです。デカルトは『方法序説』や『第一哲学諸論』においてこの方法を詳述しています。

...1. **全てを疑う**: デカルトは、信念の中に少しでも疑わしい点があれば、それを全て否定することから始めました。これには、感覚や外界の存在、数学的な真理なども含まれます。

Chat GPT4.0より一部引用

哲学界の偉い人、
ソクラテスのこんな話がある。

ソクラテスが道を歩いているとき、
馬車が迫ってきていたがソクラテスは
その馬車が本当に馬車なのか、
考えてやまなかった。
轢かれそうになったので側にいた弟子が
ソクラテスを引っ張って助けた。

これは考えすぎな場合の話で、
懐疑主義の極端な適用による不合理さや危険性を
強調する一つの寓話だと言われている。

これを今の時代で考えてみると、

コンビニでおにぎりが売っていたが
本当におにぎりか疑わしかったので買わなかった

とか、へんてこな妄想ができる。


2,自分自身の意識以外は
 存在するのか?


この話を初めて聞いた頃、
外の風景を眺めていたらあることが
ふと頭によぎった。

「他人の意識は存在するのか?
 誰も生きてなんかいなくて、
 ハリボテの命なのではないか?」

自分自身は確かに意識がある。
呼吸をしていて、五感も存在している。
楽しければ笑うし、悲しければ泣く。
生きている限り自分である。

では、他の人も同じなのか?

確かに僕が人に、
話かけるとか殴るとかすれば、
相手から何かしらの反応は返ってくる。

でも、それは僕自身が他人に影響させなければ
本来は生じえないものなのではないか?

あと、一つ考えてみて欲しいのが
東京の渋谷の街の人混みにいる時、
その中に人間に擬態した宇宙人が居ても
だれも気がつけないだろう。

なぜなら、誰もその人のことを知らないから。
僕たち人間はその宇宙人になれない。

それと同じで、
僕は他の人の誰にもなることができない。
自分が飼っているペットにもなれない。

他の人が楽しんでいても、悲しんでいても
僕はそれを体験することもできないし、
完全にわかってあげることもできない。

以下、過去の僕の記事引用

例えば皆さんは
他人の悲しみを分かってあげられますか?
その人がどんなことを経験し、
傷つき、苦しんで、今を生きているか?

100%分かってあげられますか?

僕は無理だと思います。
僕以外は他人なんです。

前述した僕の過去ですが、
誰もその事を知りません。

自分が様々なことを経験し、
それによってどれだけ心が豊かになっても
他人は僕のことをただの他人だと見てくる。

僕が当たり前に当たり前のことをやっても
僕はただの他人にしか過ぎない。
どれだけ正しくあり続けたとしても。

皆んなは「自分」を生きているから、
誰が何をしようと害をなさなければ
どうでもいいんです。

分かりたい、分かりたくない。
2つの感情は全て主観的に判断され、
行動に反映されて主観的に終わります。

だからそこにある僕自身の人間としての尊さは
みんなにとって存在しないと考えています。

この世界がゲームであるとするならば、
他人は名前も付かないモブキャラなのではないか

僕以外の誰も意識が存在しないんじゃないかと
考えてしまった。


3,懐疑からの気づき


他人がモブキャラなら自分は何なのか?
答えはすぐに出た。

「自分はこの世界の主人公である」

地球みたいなオープンワールドだったら、
僕は何でもできる。

出かけたり、何かを買ったり、
美味しいご飯を食べたりもできる。

それと同時に感情を受け取る権利もある。

逆にそれを他の人に与えることだってできる

喜び、怒り、哀しみ、楽しさ、
愛だって受け取れる。与えることができる。

自分は意識が確かにあって
それを100%感じることができるから、
この世界に本来は
やってはいけないことなんてない。

この意識と感覚は他の誰にとっても
代わることができないものである。

僕たちはありのままでいていい。

自分以外の人たちが僕について考える余地がない

僕たちの人間としての尊さを
分かれるのは自分自身だけ。

では、尊さについて理解したなら次は、
意識がない人たちにも
その尊さで影響させてしまえばいい。


そして、また思考を重ねているうちに
一つの結論が出た。


「人間には誰しも意識がある」

他の人に意識があるから、
僕の感じたことありのままを伝えていい。

逆に他の人から受け取ってもいい。

本来眠っていた感情や気持ちを
伝えること、受け取ることは
決して悪い事ではない。

なぜなら、誰しもがその権利を
平等に持っているから。


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