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自分の過去紹介③(高校時代:イジメられていた首席)

どうもオスギです。
この記事から読み始めた人は、僕が自分の過去を紹介している理由がわからないと思うので、改めて説明しようと思う。
僕は会社員をしながら複業としてコーチングを提供している。(コーチングってなんだ?って人はこちらのリンク先の説明がわかりやすいので読んでみて欲しい。)
もうかれこれ、コーチングを提供し始めて2年が経つが、クライアントの方からオスギさんってどんな経験を持っているんですか?であったりどんな学生時代を過ごされたんですか?と僕の過去について聞かれることが多い。
隠すことでもないので都度都度話しているが、クライアントさんからお金をいただい実施しているコーチングの時間の中で僕の過去について話すことに抵抗があったので、こうやって記事にしている。
そんな理由から始めた僕の過去紹介
今回で3本目の記事になる。小学校卒業までの1本目、中学校時代の2本目の記事は以下のリンクから興味があれば読んでみて欲しい。
自分の過去紹介①(幼少期〜小学校卒業まで)
自分の過去紹介②(中学校時代)

さて、今回は高校時代について。

高校時代

初めて自分の中で明確なゴールを立て、そして3年間を過ごしたのが僕の高校時代。
実の所、それまではなんとなくぼやけたゴールを持ちながら生きていた。
「テニスが上手くなるといいなぁ」であったり、「次のテストでいい点を取ろう」など。
ゴールや目標をバシッと決めて生きていたわけではなかった。もっというと、世の中的に「これしておくといいよね」っていうものをなんとなーく認識して、それが達成されるであろう行動をしていた。そして有難いことに結果もそれとなくついてきていた。

そんな生き方をしていたが、高校に入学してすぐに僕は「学年トップで卒業する」ことを卒業時のゴールとして設定した。
そしてそのゴールの事は誰にも言わず、親や友人にも共有せず、自分だけに留めていた。

通っていた高校では卒業時に学業成績や課外活動、そして卒業論文の3項目がそれぞれ数値化されて、その合計点数の高い順に順位が出される。
そこで1位になると自分の中で決めた。
通っていた高校が大学の附属校ということもあり、推薦で大学に入学する場合はこの順位が学部学科選びにとても重要なものだった。
というのも、各学部学科には定員数があり、この卒業時の順位の1位から順々に選んでいくというものだったからだ。
つまり、上位にいればいるほど自分で行きたい学部学科へ行ける確率が高くなる。
そして順位が低いと行きたい学部学科があっても、自分よりも順位の高い同級生が選び取り定員を超えてしまった時点で行けなくなるのだ。

当時高校1年生の時点で行きたい学部学科があったのか?というとそうではない。
ただ、上位にいた方が良いだろうという思っていた。
ただ、それ以上に当時の僕は他者からの承認欲求を求めていた。
学部学科選択を有利に進めることだけでなく、「赤尾杉はすごいやつだ」と思われたかった。
だから学年トップを目指した。
これが僕が学年トップを目指そうと思った根源的な理由だ。
勉強だけではない、課外活動でも、そして卒業論文でも圧倒的に良い成績を出そうとした。
先生からはもちろんのこと、同級生からも「すごいやつだ」と思われたかったのだ。
そして、結果から言うと、学年トップの首席で卒業できた。
学業成績・課外活動・卒業論文を全て数値化すると200点満点になるが、そこで199.8点だったことは覚えている。
そして忘れられないこの0.2点は美術の彫刻の作品を提出する1週間前に落として割ってしまい、1週間で作り直したけど、間に合わなかったことが原因。
学年トップで卒業できたため、目標は達成したが内心200点満点を狙っていた気持ちもあったので、詰めが甘かったなと思っている。

今現在、認知科学的なアプローチのコーチングも提供している身として思い返すと、この時自分の頭の中では「学年でトップをとっている人物だ」と自分の無意識が言っていたことを覚えている。
だから、学業においては授業で眠らずに全て聞いていたし、眠くならないように休み時間に昼寝したりコーヒー飲んで対策をしていた。
課題も全て全力でこなす。
先生が授業で話して教えてくれることの要点や本質を掴み、それが掴めなければ先生に直接聞きにいく。
テスト前はテスト範囲の内容や記述したノートを全て覚えて臨む。
そして、体調を壊したら学校を休み授業を聞き逃すことになるので、体調に少しでも異変を感じたら休息を積極的にとっていた。
課外活動でもテニス部で良い成績を取るために自分のプレーをどうすれば良いか研究して実践していた。
卒業論文も、部活のない土日に高校生ながら複数の大学の図書館へ行き、蔵書されている論文を読んで論文の書き方や内容を参考にしていた。
これらの行動は無理して頑張ってやっていた、と言うよりも当たり前にやっていて苦ではなかった。
それは「自分は学年でトップを取る人物だ」と思っていたからだ。
そんな人物だったらこれくらい赤子の手を捻るくらいの感じでやっていて当たり前だろうと思っていたからだ。
今思い直すと、学年トップを確実にとるためには、それを軽々やっている人になる必要があると感じていた。
例えていうなら、日本チャンピオンに確実になるためには世界チャンピオンになる。自分の得たい結果よりもすごい結果を出せる人になれば、自分の得たい結果はコンディションが悪くても出せる。と考えていた。

そんなわけで結果として学年トップで卒業して、推薦で行きたい学部学科に入学したわけだ。
首席で卒業したことは紛れもない事実で、順風満帆のようにも聞こえるだろうが、正直そうでもなかった。
それは、高校時代の僕はイジメられていたからだ。
そのことについても触れていこう。


高校2年生頃から約1年間近く、学年のいわゆる”いじめっ子”たちから僕は標的になりイジメられていた。
卒業して14-5年経った今でもそのイジメられていたことが夢に出てくるし、その過去を思い出すと胸は痛くなる。そして嫌で居心地の悪い気分に襲われる。
当時僕をイジメていた同級生を許すつもりもないし、顔も見たくない。
同じ空間にも絶対にいたくない。
今後の僕の人生に関わって欲しくない。
そのくらい僕にとっては辛くて嫌な思い出だ。

そんな思い出だけれどもこうやって記事にして公開できるくらいまで自分の中で整理がついてきている。
過去は変えられない。だから受け入れて前に進む糧にするしかない。そんな想いで辛い中少しずつ受け入れてきた過去だ。

僕がイジメられた一番の理由が僕が「ゲイではないか?」という疑いをいじめっ子集団に持たれたからだ。
当時の彼らは何かにつけて人を馬鹿にし、そこから笑いをとることができればなんでもする、というような奴らだった。
そして人の心を踏み躙るのがとても得意な奴らだった。
さらにいうと、悪知恵がきく。
彼らはいろんな人を取っ替え引っ替えイジメの対象にしていき、場面場面でイジメの標的を変え、標的が傷つくような辛辣な言葉をヘラヘラ笑いながら言っていく。
教室でも、授業中でも、廊下でも、通学路でもどこでも。
イジメの標的を見つけたら、すかさずに言う。
そして、傷ついた姿をみてケラケラと笑って、その傷ついた姿に塩を塗り込むように更に傷つく言葉を言ってくる。
更に重ねると、先生たちも彼らがイジメているであろうことは気づいていたが、決定的な証拠は絶対に掴ませない。そのくらい狡猾に悪知恵を働かせてやっていたのだ。

僕自身がなんて言われていたのか、ここでは書きたくないので書かないが、あの言葉には本当に傷ついた。
今でもその言葉を思い出すたびに胸がキューっとなる。
耐え難い苦痛だ。
14-5年経った今ですら、彼らの名前や写真がSNS上に出てくるだけでも僕の心はざわつく。
そのくらい酷い経験だったし、今でも引きずっている。
これでも以前に比べるとマシになった方だが。

ただ、そんな高校時代だったが、イジメられていても僕と親しくしてくれた友人がいたこと、そして勉強や部活に打ち込むことで不登校やそれ以上の最悪な選択を僕はすることはなかった。
友人たちには本当に感謝している。
ありがとう。


イジメに屈しなかったもう一つの要因として僕の中での確固とした想いがあったからだ。
それは
「僕は何も悪いことをしていない。悪いことをしているのはいじめっ子たちだ。」
というものだ。
僕は授業を真面目に受け勉強し、テニス部の部活で上手くなるために練習して努力をしている。
そして、男性が好きなだけだ。
何も悪いことをしていない。
悪いことをしているのは、人の気持ちを踏み躙って、笑い物にし、傷つけているいじめっ子たちだ、と思っていた。
この想いを強く持ち、信じていたことも最悪の事態にならなかった要因だと思っている。

後半はイジメの話で読んでいて暗い気持ちにさせてしまったかもしれない。
でも、これが僕の高校時代だ。
主席で卒業しつつ、途中からはイジメられていた。
思い出は美化されていくというが、イジメられた経験は未だに美化できない。
ただ、その経験があるからこそ、今の自分があるのは事実。
そんな僕の高校3年間。

次回は大学時代について書こう。
大学も本当にいろんなことがあった。
今の自分に多くの影響を与えてくれた大学時代。
書くのが楽しみだ。

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