「インタープレナー」を目指した13年間の軌跡(1)
★本記事は、Sundred Industry-Up Days: Spring 2021のインタープレナー公式イベントレポーターとしての寄稿です。
自己紹介
こんにちは。竹松 和友と申します。
現在は新規事業開発部門に所属しており、主にIoT関連の事業開発と技術開発を担っています。また、2018年から中小企業診断士(いわゆる企業内診断士)としてもプロボノ的な活動をしています。
本記事では、Sundred Industry-Up Days: Spring 2021のインタープレナー公式イベントレポーターに応募した動機についてお話します。
一言で言えば、Sundredのイベントでしばしば「産官学連携」というキーワードを聞き、「かつてあきらめた道」を再度歩み始められる気がしたからです。
Sundredが提言するインタープレナー像
Sundredでは「インタープレナー」という概念を提言しています。
【インタープレナーとは】社会起点で目的志向であり組織を越境して共創しながら価値創造ができる「個人」です。
肩書、所属は関係なく、実現すべき未来に向けて、行動するパッションやビジョンをもった方々です。
インタープレナー達の対話や活動がもっとよりよい未来を創るスピードをあげていきます。
Sundredのインタープレナーコミュニティは2020年の9月に発足。官民、大手やスタートアップ、教育者、医療従事者など、230名を超えるインタープレナーが集まり、社会起点の共創を「個」と「個」で加速させるべく対話や交流をしています。私も「インタープレナーコミュニティ」の参加者の一人です。
「産官学」のプロジェクトの片隅にいた私
12年ほど前、私は大学院の修士課程に在籍し、スーパーコンピューターを使って、タンパク質の状態を計算し、インフルエンザウイルスの変異のメカニズムを探ろうとしていました。
この研究は、組織横断型でした。共同プレスリリースには、民間企業が2つ、国の研究機関が3つ、大学名が3つ並ぶという、まさに産官学連携のプロジェクトだったのですが、修士の学生でかかわっていたのは、私一人。プロの研究者とバリバリのエンジニアの方々に囲まれ、素人に毛が生えたような、ひよっこ院生が、「データ解析して何か面白い考察して!」といわれ、ひどく困惑することに。
もし、視点・視座が違っていれば、あるいは視野が広ければ、別の感じ方感じ方が違ったと思いますが、当時は、そんな余裕はなし。自分で選んだ研究室、研究テーマにもかかわらず、「なんでこんな場所にいるんだろう」感じ、オーケストラに入り浸ったり、他大学の院試を受験したりと、逃避行動を繰り返していました。なんともったいないことを。ちなみに当時研究室ではPythonが流行っており、使いこなせるようになっていれば今頃は。。。
そんなこともありながらも、一定の成果を出すことができ、いくつかの学術論文に著者として掲載いただきました。1本だけですが主著論文もあり、ありがたいことに2021年に入っても引用いただいております。
https://pubs.acs.org/doi/10.1021/jp810997c
「インタープレナー」へ向かう原点と逃避
たまに、「出身学部を教えてください。」と質問されますが、正直、今でも答えにくい質問です。なぜなら、学部名がユニークで何をやっていたのかいまいち伝えにくいというのがあります。
私の出身は、神戸大学発達科学部(現 国際人間科学部)・大学院人間発達環境学研究科を卒業、修了しました。(※なぜこの学部を選んだか、については、あまりに長くなりそうなので、後日改めて。)
発達科学部は1990年代前半に教養部と教育学部が合併してできた学部ですが、法律や経済、経営の先生はいないし、国語と英語にかかわる専攻は国際文化学部として別個に設けられたため、どこか不完全な「学際学部」「教養学部」であり「教育学部」でした。
しかし、不完全さを抱えながらも、甲子園球場の敷地の二割増しくらいの広さのキャンパスに、同じ敷地に量子力学の研究者と現代作曲家の研究室と臨床心理の現場がありました。(教授陣は入れ替わりましたがその雰囲気は今でも。)
そんな、「学際的な」発達科学部には、サイエンスショップという組織があります。
神戸大学サイエンスショップは,市民と専門家(科学者・技術者など)の対話と協働の場づくり,市民のさまざまな科学活動への支援,地域の学校や社会における科学教育に対する支援などに取り組み,地域社会の市民が科学技術をより身近に感じ,課題解決にそれを利用し,また「研究」も含めて「科学」という営みを楽しむ文化をひろげてゆくことを目指します。
神戸大学サイエンスショップ「ごあいさつ」より リンクはこちら
私の研究室では、理論系の別の研究室と合同でゼミを行っていたため、指導教員の先生が二人いました。
そのお二人ともが、サイエンスショップの活動にかかわってらっしゃり、サイエンスに関心のある一般の方々にわかりやすく伝えるには、プロの研究者だけでもなく、大学院の修士課程くらいの学生に機会を与えてみよう。マスターの学生が話すのが聞き手に一番わかりやすいだろうお考えだったようで、第64回 サイエンスカフェ神戸での発表の機会をいただきました。
サイエンスカフェにはさまざまな市民の方々が参加されます。そこで、分かりやすい話が良いだろうと考え、私が研究していた、インフルエンザウイルスのタンパク質の話そのものではなく、創薬においてコンピュータ上で候補物質をスクリーニングする。その手法としてニュートンの運動方程式やシュレディンガー方程式によるエネルギー計算を行うという説明をしました。
しかし、「コンピュータ創薬なら満足度が高いだろう」という想定は、二つの意味で間違っていました。
① 世論をとらえきれていなかった
このサイエンスカフェの登壇が決まった直後に、かの事業仕分けがスタート。開催当日は、かの「2位じゃダメなんでしょうか?」発言が飛び出した直後。スパコンを造るべき、事業廃止するべきの議論が交わされ、サイエンスカフェの趣旨とはやや違った雰囲気に。
② 自分がなにものであるかをわかりやすく説明できていなかった
ひととおり、スパコンの討論?が終わった後、元研究者の方が、私の学会要旨のプリントアウトを携えて一言。
「今日は君の研究の説明を聞きたかった。とても興味深いのに、なぜそれを話さないんだ。」
こうして、やや悪い後味を残して終了しました。
この記事を書きながら改めて振り返ると、この時の私は、メディアの情報や一般の方々の声を正確にキャッチするスキルも、アンテナもありませんでした。大規模シミュレーションの現場の声や、プレゼンのテーマそのものを伝える、あるいはそちらに興味を引くことができていなかった。プレゼンターだったのに。さらに、自分の行っている研究の意義を自分の言葉で広く伝えることもできなかった。いわば、インタープレナーのような姿にあこがれていたのに。それができなかった。一般の方々が集まる場で話しただけで満足していました。
(写真は当日の様子。肩をすぼめながら話しています。)
サイエンスコミュニケーターという仕事があります。社会全体のサイエンスリテラシーを高め、 人々が科学技術をめぐる問題に主体的に関与していける社会の実現に貢献するという、これからの時代にますます重要な職業です。
(※2011年12月に日本サイエンスコミュニケーション協会が設立)
こうした、学際的な活動、あるいは産官学、もっと言うと市民の方々を巻き込んでいく営みについて、このころ、本当に重要だと認識していた人々はごくわずか。また、研究者の道を勧められたこともありましたが、あっさり就職すると宣言。
リーマンショック直後、無名学部、かつ設立年月の浅い研究室に所属し、修士所属学生で初めて就職という進路を選ぶ、という就活でした。専門領域をまたぐような説明は極力抑え、「コンピュータシミュレーションが専門なので、IT業界を志望しました。」という一度のっぺらぼうな見せ方をして、ちょっとだけ面白みを出す、そんな中で、手堅く大企業を志望し、NTT西日本への入社が決まったというだけで安堵していました。
ただ、今思い起こせば、「君の研究は産官学連携だよね。」とリクルーターの先輩が言ってくれたことが入社動機の一つだったかもしれません。
(2)へ続きます。
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