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連載小説:球影#3

 
 
 週が明けて月曜日、海野の契約更改がおこなわれた。
 予想通り、交渉は決裂した。事前に通知していた金額を球団が正式に提示し、海野がそれを不服として保留にした。
 交渉のなかで大島は、査定の指標となるさまざまな数字を引き合いにだし、減額を説いた。海野もあるていど理解は示した。その上で、おたがいが正当とする金額に大きな開きがあった。こちらが提示した五千五百万に対し、海野の要求は一億三千万だった。
「本人、まだ笑っています。いまの自分の力もそれなりに客観視できているようです。そして、自分の価値も冷静に判断できています」
 GM室に報告にきた大島はいった。
「ひとりだな」
「はい。とくにだれの同席もありません」
「感触は」
「悪くないと思います。今後もうちで現役続行を強く望む姿勢に変わりありません。交渉を通して、こちらの想定から外れた反応もありませんでした」
 大島は自分のやるべきことよをよくわかっていた。細かい指示は不要だった。私はパソコンのモニタに表示していた資料を閉じた。
「よし、わかった。引きつづき頼む」
 一週間後、二回目の交渉がおこなわれた。こちらは提示額をまったく変えず、むこうは要求額を一千万下げてきた。報告にあらわれた大島はいった。海野は一回目にはなかった怒りの感情を見せた、と。減額率が大きすぎて不当だといって。海野は、交渉を重ねていく過程で、双方が徐々に金額を歩みよせる折衝を考えていたようだった。こちらには端からその気がなかった。話し合いは平行線で終わった。
「順調だな」
「まあ、海野には気の毒ですが」
 現状、どこをどう切りとったところで、道義は海野にある。協約に違反しているのは、あくまでわれわれ球団側だった。だが、交渉そのものは圧倒的にこちらが優位に進めている。
 そろそろつぎの動きがでてもおかしくないだろう、と私は思った。そのあたりは、じっさい交渉に臨んでいる大島のほうが敏感に感じていた。
 案の定だった。翌週おこなわれた三回目の交渉の場に、海野は代理人をつれてきた。
 代理人といっても、トップアスリートを顧客に持つような交渉の専門家ではない。選手会公認の、たんなる野球好きの弁護士だった。
 代理人はいい募った。減額率が協約に違反している、と。その一点張りだった。いっていることにまちがいはなかった。こちらは事前通知の段階から、協約を無視した金額にまったく上乗せしていないのだ。
 ただ、協約はあくまで協約で、法律ではなかった。むこうはさらに一千万下げて、自ら減額限度率を超える一億一千万に要求を変えてきた。
「この金額が海野氏の適正年俸であると、私は海野氏とともに貴社球団経営陣に強く申し入れたい」
 代理人の言葉だった。なんの根拠もない。選手の適正年俸など、じっさいにはあってないようなものだ。方式はある。目安もある。だが結局は、いつ、だれが、なにを、どう判断するか、だった。現在選手の査定は細かく数値化されているが、どれだけ緻密にデータを分析しても、最終的に金額を決めるのは、そのとき運営を任されている球団上層部の人間なのだ。
 海野側が強硬な姿勢を示したので、こちらも多少の譲歩をほのめかした。
 検討を理由に、つぎの交渉まですこし日を置くことでおたがい同意した。
「雰囲気はどうだ」
 大島の報告が終わると、私はいった。
「とくにおかしなところはありません。代理人といっても、相手はごくふつうの弁護士です。たんに球団もすこしは譲歩しろといっているだけで、契約更改に関しては素人でしょう」
「なにか奥の手を持ってそうな気配は」
「それはなさそうです。少なくともわたしには感じられません。あの類の代理人がでてきてくれて、こちらとしてはむしろ好都合でしょう」
「海野の心変わりは」
「ない、と判断しています。代理人の力を借りてまで契約をまとめようとするくらいです。来季以降も地元で現役をつづけたいという強い意志を再確認できました」
「わかった。引きつづき頼む。われわれの目的は、あくまで海野と契約をかわすことだ」
「はい。心得ております」



 海野との交渉が再開されるまでのあいだ、十二球団合同トライアウトの日程が入っていた。


        続ー球影#4







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