平安時代に詠まれた「歌」は現代の歌にもなじむ
BAD APPLE
歳を重ねる中で、そのものの良さや自身の中での価値の高さが変わるものがある。若いからこそ大切にできたこと、歳を重ねる中で重きを置くようになったもの。歳を重ねることで興味を持てることや、時間を費やしたいと思えることも増えてくる。年齢だけを重ね、若者たちと自身を比較して僻んだり、若者たちのの支持するものを真っ向から否定したりすることは、自身の中の大事なものをすり減らすだけだと思うので、年齢に見合った人生の楽しみ方を見つけたいものだ。
そういう感情に火をつけてくれたのが、「BAD APPLE」。20年前のGLAYであったとしてもこういうタイプの楽曲が作れたはずだが、間違いなく20年前の自身では、この楽曲が持つ味を味わいつくせなかっただろう。今でもおそらく味わいきれていないところ、解釈に歪みがあるところもあるだろう。10年後に聴いたら、また別の感情を与えてくれるかもしれない。GLAY楽曲の魅力は、その時の瞬間風速的な感情をパッケージしたとしても、10年後に聴いてもまだ深みがあること。熟したことで見える魅力があること。新しさがないわけではないけれど、一時のムーブメントに止まらないものを常に作り続けているという点にある。「BAD APPLE」は10年後に聴いた時に、また今とは異なる解釈が自分の中にできているかもしれないと思うと、それはまた楽しみだ。
楽曲そのものも、これまでのGLAYが持つ雰囲気とは一線を画しており、出口までの道のりのイメージが全くつかない迷路に紛れ込んだようなイメージ。シングルのジャケットやツアーのステージセットから印象に引きずられている可能性も多分にあるが、不思議の国のアリスが迷い込んだような、自身のもの想像の範疇からはだいぶ外れた世界観の迷路で、どこに進めばよいのかもわからないし、そもそも出口があるのか?というところから疑いたくなるようなそんな迷路。でも、不思議とその世界観に恐怖はなく、でも自身の想定内におさまるものが視界に全く入ってこない違和感だけがまとわりついている感覚。
後ろの方でずっと鳴っている一定テンポの音のせいだろうか。その音が異次元の世界に手を引いて行くような感覚。だからこそ「BAD APPLE」といういわゆる「腐ったみかん」にあたるタイトルが持つマイナスのイメージに引きずられることなく、楽曲に入り込んでいける。
そしてこの楽曲が持つ不思議な違和感の正体のひとつは、その歌詞にもあると思う。平安時代の「歌」を現代の「歌」詞にするとは。そして、違和感をつくり上げるために歌詞に「歌」を盛り込んだ結果はまったくの違和感を消し去るという離れ業。TAKUROの引き出しの多さと教養の深さ、音楽へのあくなく探究心に脱帽。
見よ、今(と言ってももう2年ほど前だが・・・。今はより良い)のGLAYのバンド力を!
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