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にゃ会福祉学 二限目 「アート」

 我が家の猫は美しい。

 2歳の雌猫「えん」はキジトラだ。ブラウンのグラデーションが絶妙なバランスで配色されているが、特に魅力的なのは前足だ。片方が薄く、片方が濃くまとまり、アシンメトリーだ。しかも、それに合わせ、肉球も黒とピンクに分かれている。そして、透き通ったエメラルドグリーンの瞳をしている。

 1歳の牡猫「ふく」は黒白だ。身体のほとんどを占める黒は、吸い込まれるような艶(つや)。差し色の白い毛の輝きが映える。特に魅力的なのが後ろ足だ。片足に、リボンを巻いたかのように白が配色されている。黒白のコントラストにイエローゴールドの瞳がきらめく。

 2匹とも、まるで絵画から飛び出してきたような色彩の美しさだ。

 毛並みだけじゃない。しなやかな歩み。凛としたたたずまい。何気ない仕草。伸びやかで力強い筋肉の躍動に息を飲む。軽やかでダイナミックな跳躍から音もなく舞い降りる。その筋肉は、柔らかな脳から産み出されるイメージ通りにコントロールされ、知性を感じる。心と身体の調和の美しさはまるでダンサーだ。

 そんな、えんとふくに魅了されていると、「世の中のしあわせ」である社会福祉には、アートが必要だと学ぶのだ。


 
 アートと聞くと、どんなことが浮かぶだろう。音楽、演劇、絵画などを思い描くかもしれない。アートの概念は広く、ここで語ることは難しいが、人間の技術、すなわち生きる術(すべ)のことが語源という説がある。

 音楽、演劇、絵画といったアートはその言葉通り、生きる術から表現されたものだ。それは、命の尊さ、生きることの豊かさ、愛することの喜びを伝えてくれる。

 えんとふくが持つ毛並み、筋肉、その動きは、本来、外敵や環境から身を守り、生きるため身に付けたものだ。つまり、生きる術から表現されたものであり、アートと言えるのかもしれない。私が愛猫の日々の営みに美しさを感じるのも納得だ。

 人もそうだ。一人ひとり、違うことはあたりまえ。優劣など存在せず、誰もが自分にしかないものを表現しながら日々を営む。

 「きゅう」では、そういったことを大切に、愉快なおしゃべり、丁寧で誠実な気遣い、場と人が生む、即興性をおもしろがる視点を持ち、日々を粛々、淡々と過ごし、生きづらさに寄り添うことを心掛けている。表現したくなる、一人ひとりの居場所をつくるために、日々の営みを大切にしていたら、いつの間にか、きゅうには、たくさんの作品、アートがあった。

 営みとアートは切り離せない。私たちの暮らしとアートは地続きだ。しかし、経済成長という幻想の下に、消費と所有と利益を優先させ、それ以外のものを必要ではなく、不急とし排斥する力の奔流が、世の中を飲み込もうとしている。生きる術から表現される美しいアートは見えなくなってしまう。社会福祉には必要だ。いつまでも在り続ける、不朽のアートの力が。

 きょうも、えんとふくは大きなあくびをしている。それは「アートのない世の中、退屈」という「にゃ会福祉学」からの警鐘かもしれない。

2020.11

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