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「A区23列47番」なんかに先生はいない


この文章は

「カリブサンドだけは、今でもほんとうのまま」 by 『Neverland Diner――二度と行けないあの店で』

の続編です。でも、ここから先に読んでも、そんなに問題はない(と思います)。

ある大切な人との出会いと、その別れを、ここに記します。


卒業した塾を訪ねたのは、大人になってから2回。でも、先生に会えたのは1回だった。

小学校、中学校とお世話になった塾に足を向けたのは、なんとなくだった。帰省ついでに久しぶりの挨拶をしようと、缶ビールを土産に塾を訪れた。ボロボロだったアパートは改装され、オートロックに。少し緊張しながらインターホンを押し、「お久しぶりです、飯田です」と話しかけた。

「飯田?」
「昔、この塾でお世話になっていた飯田です」

一瞬の沈黙があったあと、

「ああ!光平くんか!入りなさい」

という言葉とともに、オートロックがガチャリと開いた。

「飯田です、なんて言うから分からなかったぞ。ずっと光平くんと呼んでたからな」と先生は笑った。棚から取り出してきた月謝の茶封筒にも、「光平くん」と書かれている。当時の月謝袋をまだ持っているなんて。

このエピソードをたった今思い出すまで、僕は「光平くん」と呼ばれていたことをすっかり忘れていた。人の(僕の?)記憶は、かんたんに過去を書き換えてしまう。

「これ、お土産に」と缶ビールを渡すと、照れくさそうな顔をしながら、「次からは、持ってこなくていい」とたしなめるように受け取ってくれた。

「光平くんには、特別厳しくしていた」と話しながら見せてくれたノートには、先生が各生徒に対して記したメモが残されていた。井の中の蛙にしない、という一文が目に入る。

「この塾は、勉強が苦手な子も多かったから、光平くんはできる方だった。でも、世の中にはもっと勉強できる子がたくさんいる。この小さな塾のなかで井の中の蛙にならないよう、厳しく接していたんだよ」

そう言われると、当時の先生の言葉がよみがえってきた。塾のテストでは、百点満点を取るだけではほめられなかった。「光平くん、ギリギリで取れる百点と、余裕で取れる百点は違うんだ。合っているか不安だった箇所があったなら、百点を取ったからって満足してはいけない」と。

また、質問をしないと叱られた。のほほんと授業を受けて参考書をめくると、先生から「光平くん、さっきのページに書いてあったここは、どういう意味だと思う?」と問いかけられる。「えーっと……」と答えられないでいると、「分からないなら、聞かないとダメじゃないか!」と叱られる。

でも、そうした先生の態度は「たしかに、そうだ」と思わされるものばかりだったから、厳しいものの、理不尽と感じたことは一度もなかった。

先生と生徒、という関係を卒業して、ふたりの大人として先生と話すのは新鮮で楽しかった。でも、まだ大人になりたての僕にはその空間が気恥ずかしくて、合宿の風景を切り撮ったアルバムをちょっとめくったあと、別れを告げた。

「今は、かつての生徒の子どもも通っているよ。時の流れは早いね」
「へぇ。先生は伊豆に合宿に行ったとき、いつかはこうした自然豊かな田舎で塾を開きたい、て言ってましたよね。月謝として野菜でももらいながら、て。塾は移転しないんですか?」
「ははは!先生は、もうずっとここで塾を続けるよ。子どもたちに勉強を教えて、休みは体育館で若者たちとバスケをしてね」

たしかに、日本人離れした風貌で筋骨隆々の先生には、バスケがよく似合いそうだ。また来ますね、と告げて塾を離れた。

それからまた何年も月日は流れ、ふとした拍子に塾を再訪した。でも、通い慣れた建物の前に立っても、塾の看板が見当たらない。嫌な予感を抱きつつ、塾の下の階にあった店に入る。

「いらっしゃいませ!」
「あの、このお店の上にあった塾に通っていたものなんですが」

一気に、店員さんが「あぁ」という顔になる。それは、僕がお客さんではなかった以上の悲壮感があって、それだけで僕は、自分の嫌な予感が当たっていたことを知った。

「去年、亡くなられてしまったそうなんです。突然の病気だったらしいのですが、私も細かいことは分からず、身寄りもいなかったそうなので、大家さんが対応したらしいです」

先生が亡くなった。いろんな感情が体のなかで噴出するのを感じながら、必死に、冷静に、頭を動かした。

「そうでしたか。あの、お墓の場所はご存知ですか? もしくは、大家さんの連絡先を教えていただけたら」

でも、やはり店員さんは詳細を知らず、大家さんの連絡先も教えられない、とのことだった。そういう時代だ。「飯田さんのように、元生徒だったんです、と来られる方は多いのですが、私たちもどうすることもできなくて」という彼の言葉を耳に残しながら、店を出た。

考えろ。かんたんに音を上げるな。

僕は、法務局に行けば建物の所有者の情報が得られることを『ナニワ金融道』で知っていた。どの知識がいつ活きるかなんて、誰にもわからないものだ。

それでも、成果は芳しくなかった。あまり、大家さんとの会話は思い出したくない。「なんなんですかいったい。何年も前のことですよ。こうした連絡が何件も来て、こっちも迷惑してるんだから。教えることは何もありません」。わらにもすがる思いだった僕は、それらの言葉にかんたんに傷ついた。でも、何人もの人が大家さんに連絡し迷惑をかけたことが、申し訳ないが、僕には誇らしかった。そうだ、先生はそれくらい慕われていたんだぞ、このやろう。自分が身勝手な問い合わせをしている自覚はあったけど、それでもやっぱり、悲しいやりとりだった。

結局、大家さんからは何も聞き出せなかった。でも、それは諦める理由にならない。身寄りがないのなら、死後の手続きは市役所が行ったはず。「知り合いが亡くなりまして」と、市に電話をかけた。

予感はあたり、先生は市によって共同墓地に埋葬されていた。とても丁寧に対応してもらったが、死亡日については「個人情報にあたってしまうので……」と教えてもらえなかった。死んでもなお守られる個人情報。なんだか、おかしかった。

でも、続けて「資料を見ると、去年の冬頃に亡くなられたようですね」と伝えられる。変えられないルールを少しでもたわませる人間味は、大家さんとの会話に磨耗した僕の心に染みた。先生が眠る墓地は、ある霊園の「A区23列47番」。機械的に割り振られたナンバーは、それだけで切なかった。

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大きな霊園は、見晴らしもよく、快晴の下で気持ちのよい場所だった。でも、伝えられたA区23列47番は、コンクリート造の建物のなか、その片隅にあった。そこはまるで、下駄箱のような小さなロッカーの一室。先生の名前が書かれるべき場所には、市が対応したゆえか、「藤沢市長様」とだけと書かれていた。

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こんなさびしい場所に、その名前すら記されず、先生が眠っているのか。動揺しながら、しゃがんで手を合わせた。前回の訪問時、先生は最後に「次は、結婚してから来なさい。結婚の直前はだめだ」と言った。その意図が汲み取れずに立ち尽くしていると、続けて「だって、結婚前に来られたら、ご祝儀にいくら包んだって足りないだろ」と笑った。

先生、僕はちゃんと約束を守って、結婚してからここに来たよ。なのに、あんなに人との約束を大切にしてきた先生がそれを破るなんて、あんまりじゃないですか?

手を合わせるうちに、怒りがこみ上げてくる。先生に対してではなく、あんなに誠実に生きた人が小さな箱に収められていること、なにより、僕が先生との思い出をなんら形にしていなかったことに。

生徒たちを写真に収め、ノートや月謝袋まで残していた先生。一方僕は、そこに行けば会えるからと、なにも残していなかった。あのアルバムも、あの月謝を入れる茶封筒も、どこかへ消えていった。僕の記憶だけが思い出だ、と気構えするほどに、その輪郭はおぼろげになっていく。先生は、どんな顔だったっけ。「光平くん」と呼ばれていたことすら忘れていた不肖の生徒は、こんなにも頼りない。

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仏花を供えながら、僕は決めた。もうここには来ない。だって、先生はここにいないから。死者の魂は、果たしてどこに横たわるのだろう? 僕は、先生との思い出をたぐり寄せるこの文章を、先生の墓地とする。勝手ながら、そう決めた。

多くの死者が埋葬された霊園でもなく、雨風と長い時間に耐えうる墓石でもなく、焼け残った骨や灰でもなく、先生はこの文字の連なりに眠る。僕が先生を訪ねるとき、A区23列47番ではなく、この文章をひらく。そして祈る。先生を思う。頼りないけど、掘り起こした記憶に手で触れる。

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ねぇ先生、きっと僕は「A区23列47番」には二度と行きません。あそこに行って手を合わせるより、この文章をめくる方がよっぽど懐かしくて、悲しいから。そしてこの感傷も、時が経てば平凡な思い出になるかも知れない。でもそれは、緊張せずに過去を一緒に振り返れる合図ですよね。

また来ます。それまでお元気で。


繰り返しになりますが、この文章は書籍『Neverland Diner――二度と行けないあの店で』に収録されたエピソードの、続編です。

そして、『Neverland Diner――二度と行けないあの店で』のトリビュートZINEであり、上田市を舞台とした『二度と行けない(上田の)あの店で』に寄せたものを、note に全文公開しました。



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