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嘘つきな君へ 第二話-2

こんばんは、ときめき研究所のKEIKOです。
楽しみにしていた舞台やミュージカルが延期延期で悲しいですが、雨にも負けず風にも負けず、今日も更新続けます!笑 ちょっと今日は長めに貼り付けときますね。お付き合いいただけたらうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします!

嘘つきな君へ 第二話 上野恵芽の憂鬱-2

「私だったら、ぜーーーったい住む!その家!!」

 翌日、バイト中に優香に相談したら、食い気味にそう答えた。一部始終を話したのだけれど、もう渋谷の東急にベンツが停まってた時に優香は興奮最高潮になっていた。そして、RIHITOが登場した時点で、何かが振り切れたような感じがした。

「ってか!恵芽が悩んでんだったら私が代わりに住んであげるよ!!」
「…それ、意味なくない?なんで知らないおじさまの最期を他人のあんたが看取るのよ…」

 優香はほっぺを真っ赤にしながら私に懇願してきた。
 そりゃあ、そうか。あんなイケメンばかりが住む大豪邸に住めるって、女子からしたらまたとない話だ。兄弟はともかく秘書までがイケメンとか、まさしくさながらイケメンパラダイスなのだ。でも、パラダイスに飛び込むことは言わば、母が残してくれた家を手放すことになる。思い出がたくさん詰まったあの家を手放すなんてこと、簡単にできるはずがない。

「だけどさ、女子大生で家持ち、しかも一軒家って男は絶対ヒくよ。モテないし、それに嫌なんだったら無理に壊さずに残してたらいんじゃない?」
「それは…そうなんだけど…」
「もーほんとまじでうらやましいよー!一緒に住むことになったら、泊まりに行くね♡RIHITOお兄様と家飲みさせてー♪」
「...なんでもうお兄様呼びなのよ!やめてよ…」

 私よりも優香の方がずっと浮かれていた。うん。私だって、たぶん客観視できたらすごい面白い話だと思うだろう。だけど、当事者からしたら結構重たい話なわけで、なかなかそうは言っても飛び込むのには勇気がいった。なにせ、母が私に父の存在を隠していたことが、今でもちくちくと棘のように私の心を傷つけている。母の気持ちも分かるような気もするから、余計に辛い。

「にしても、恵芽のお母さんはさぁ、やっぱり恵芽のことが大事だったから、言えなかったと思うんだよねぇ、私」
「…うん」
「私も恵芽のお母さんだったら、もう死んだことにしちゃうよね、そりゃあ」

 私だって、そう思う。
 ふたりで洗ったばかりのグラスを拭き上げながら話していたら、ガラスの向こうの桜並木がざわっと風で揺れた。
 私がこのカフェで働きはじめたのは、全面ガラス張りの店内から見える桜並木が好きだからだ。毎年春になると、この川沿いの桜並木をゆっくりと歩くのが大好きで、そこにカフェができると聞いてアルバイト募集の広告にすぐに申し込んだ。目に飛び込んでくる桜色の景色を見るたび心が弾むけど、今年はちょっと複雑だった。季節が変わっていく事実を突きつけられているようで。目下、就活は全然解決策が見つからないし、今度はお家騒動まで振りかかってきた。本当にどうしよう。
 ぐるぐると考えを巡らせながら、桜の花びらが風に舞う様子を見てたら、お客様が入ってきたのにすぐに気付けなかった。

「…すみません」

 その人が入ってきた拍子に、いっしょに桜も舞って入ってきたのだろう。カフェの入り口にピンク色の絨毯が敷かれたようになった。

「いらっしゃいませー!」
 
 優香の声色が2オクターブ上がった。無理もない。桜吹雪をまとって登場したそのお客様は、文句なしの美しい青年だったのだ。
 即座に優香がバーカウンターから出て、うきうきとお客様をお席にご案内する。後姿はまるで、スキップでもしているようだ。
 すらりとした長身で、全身黒いラフなスウェット生地の上下でナイキのスニーカー。くせっ毛っぽい、くるくるっとしたゆるいパーマの茶色の髪に、丸く大きな瞳。すっとしたイケメンというより、仔犬みたいなかわいさがある男の人だった。手には大きなスケッチブックみたいなものを持っていた。たぶん、人混みの中でも特有のオーラを発していて、思わず目に留まってしまうような、そんな不思議な魅力を持った人だった。
 お客様をお席にご案内した優香は嬉しそうにバーカウンターに戻ってきた。

「恵芽ー!ホットラテひとつ♡いや、ってか私が作る♩」

 そんな風に言いながら、いそいそと優香は腰にエプロンを巻きはじめた。

「優香…なんかあからさますぎない?態度…」
「え?そかな♡」
「語尾に♡ついてるよ…」
「なんかさー恵芽ってイケメンホイホイなの?すごくない?」
「……ホイホイって…なにそれ」

 優香が私に羨望の眼差しを送ってきた。でも、自分でも昨日からイケメンエンカウント率がかなり高いことに気付いた。神様は私を試しているのか…?
 コーヒー豆をタッピングしながら、優香が慣れた手つきでエスプレッソを淹れる。マシンが音を立てながら、コーヒーの香ばしい香りが店内に広がるこの感じが、実は私が好きな瞬間でもある。少しずつコーヒーを抽出する間に、私と優香は気付かれないようにこっそりと子犬君(と呼ぶことにした)を観察することにした。
 何故か物憂げな表情の、その子犬君は、遠目からも分かるくらい切なく一息ため息をついた後、持っていた大きなスケッチブックをテーブルにばさっと広げた。そのまま、スウェットのポケットから鉛筆を取り出したかと思うと、そこに何かを書き始めた。

「…あれ、何だろうね…」
「ここからは、よく見えないけど…なんか…絵かな?」

 そのころにはもうすでにコーヒーは淹れ終わっていて、優香はエスプレッソの上に乗せるためのミルクを泡立てながら、背伸びしたり目を細めたりして子犬君を見つめていた。気泡を抜いて、優香はふわふわのフォームミルクをエスプレッソの上に敷いていく。

「やっぱハートでいくべきだよね♪」
「…なんか楽しそうね優香…」
「うん、楽しい♡」

 そして優香が心を込めて作ったラテが完成するころだった。

「優香」
 
 店長だ。よりによってこのタイミングで、である。

「お前の勤務日数のこと確認したいから、ちょっと裏来れるか?」
「店長…このラテお客様に持っていってからでも…いいですか?」

 半分涙目になりながら優香が懇願するも、店長に乙女心など分かるはずもなかった。

「至急だ。恵芽、持ってけ」

 店長は、髭の生えた顎でくいと私に合図した。
 優香は打ち砕かれたかのような顔で私を見つめたあと、口パクで、おかわりは私が持っていくから!と私に訴えながら、店長に首根っこを掴まれて、スタッフルームに連れて行かれた。
 優香の行末を見守った後、私は子犬君のラテを持って彼の座るテーブルへと向かった。
 一歩また一歩と足を進める毎に、子犬君が対峙していたものが、楽譜だったことに気付いた。時折癖っ毛みたいな髪の毛をくしゃと揉みながら、子犬君は五重線におたまじゃくしを書き進めていた。作曲…?骨ばったまっすぐの長い指が目に止まって、なぜかすこしどきどきした。

「ホットラテです。お待たせしました」

 私がテーブルのそばでそう告げると、子犬君はその丸くてくるくるした瞳をめんどくさそうに、一瞬だけ視線をこちらに向けた。まっすぐこちらを見たかと思ったら、何も発することなく、すぐまた顔を楽譜に戻して作曲活動に没頭しはじめた。
 ……。
 うん。まぁ、想定内。別にありがとうって言われないこともあるよ、感謝を求めてるわけでもないですしね。店員がラテ持ってくることなんて、そら当たり前ですよね。作曲も、忙しいしそうですしね。まぁでも、でもさ。
 しっぽをぱたぱた振って遊んで欲しがってる柴犬の子犬を想像していたからかもしれない。子犬は愛嬌があるものって期待してしまっていたからかもしれない。そんなわけで、なんだか興ざめした私は、優香が帰ってくるのをバーカウンターで待っていた。1時間後、勤務日数をごまかしていたことをこっぴどく叱られた優香は、しょげた顔で戻ってきたものの、おかわりのコーヒーを子犬君に持って行った。サービスですと語尾に♡マークまでつけて持って行ったけど、私と同様塩対応されて、さらにしょげた顔になって帰ってきた。

「恵芽、今日もお疲れ様」
「はい、お疲れ様です」

 その日は閉店までのシフトだったので、全てのお客様をお見送りした後、店長とふたりで締め作業を行っていた。優香はシフトを終えてすでに帰宅済みだ。
 締め作業の最後は、お店の命であるエスプレッソマシンの洗浄。それは、コーヒーに命をかける店長のこだわりでもあった。コーヒー豆への情熱もすごいけど、こうした機械やお店の備品ひとつひとつ、店長のこだわりが散りばめられた素敵なお店だと思って、私はここでのアルバイトを決めた。
 店長は有名私立W大学の出身で、大卒で某大手コンサルティングファームに就職したそうだ。そうだ、というのは私が優香から聞いた話だから。こういうことにかける優香の情報網は目をみはるものがある。いろいろな企業のコンサルティングをする中で、コーヒー豆の事業を担当したときに、その魅力に取り憑かれたとのことで、足掛け5年、やっと2年前にこのお店のオープンにこぎつけた。大切な宝物のような店なのだ。
 シルバーの蒸気孔までぴかぴかに磨いてから、ふうとため息をひとつついて、店長は私の方を振り返った。あ…これは、まずい。

「恵芽」

 思ったときには、遅かった。

「返事、聞かせてもらえないかな?」

 枕詞が何もつかないまま、直球でボールを投げられた。確かに、ふたりきりになると絶対聞かれるだろうなと思っていたから、このところ店長を避けていた。
 実は、2週間前に、私は店長に告白された。バイト先の帰り道に、突然だった。店長から好意を寄せられているなんて思ってもなくて、驚きが隠せなくて、そのまま返事を先延ばしにしてしまっていた。元はと言えば、これが余計に悪かったのかもしれないと反省している。

『返事、まだかな?』

 日に日に店長からの確認のLINEや着信が増えてきて、だから最近はアルバイトからも足が遠のいていた。店長を避けてシフトインしていたはずだったのに、子犬君が来ていたタイミングのあのやり取りで、優香と今晩のシフトを変更したようだ。これは、まぁまぁやばそうだと直感的に思った。

「店長」

 もちろん、職場で気まずくなるのは嫌だったから優香には相談してなかった。これ以上焦らして思わせぶりな態度を取っても、相手にとって何のメリットもないと思ったから、正直な気持ちを伝えようと思った。エスプレッソマシンの前の店長に思い切って伝えた。

「ごめんなさい」

 私は、店長の気持ちを逆なでしないように、深々とその場でお辞儀をした。

「考えたんですけど、店長とはお付き合いできません。ごめんなさい」

 もっと言葉を選べばよかったと一瞬よぎった。だけど、まわりくどい言い方で期待を持たせても仕方がないと思ったから、そう告げた。申し訳ないけど、彼の、何かへの執着が強すぎて、ちょっと怖いとさえ思うときがある。もちろん、そこを尊敬もしているのだけれど。罪の意識が少しでも届けばと思ってしばらく頭を下げ、程なくして顔を上げた。店長がどう出て来るか。恐る恐る顔を見ると、いつもと変わらない笑顔で、そこに立っていた。

「そっか。なら、仕方ないね」

 …あれ?意外とあっさり終わった…。
 LINEや電話の着信の多さもあって、結構な修羅場を想像していて内心ひやひやしていたのだけれど、案外店長が身を引くのが早くて、身勝手にちょっとさみしくなった。引き際。その辺はやっぱり、大人なんだなぁと思った。
 店長は気まずいのか、私に背を向けてエスプレッソマシンを磨き始めた。もうたぶん、磨かなきゃいけないところなんてなかったけど、いっそう丁寧に磨いている。

「告白したこと、流してくれていいから。気にしないで。恵芽が今抜けると、アルバイト足りてなくて」
「そうですよね、分かってます。私、全然大丈夫ですから!普通に、できます!」

 店長を励まそうと咄嗟にそんなことを言ったけど、何の慰めにもならないと後から気付いた。私はもちろん大丈夫だろう。問題なのは、店長の方なのだ。私の言葉を聞いてしばらくして、店長が背を向けたまま、私に話しかける。

「今日は、もういいよ。先に帰って。遅くまでありがとう」
「……はい。失礼します」

 再度私はお辞儀して、その気まずい空間から逃げ出した。心なしか店長の肩が、小さく揺れているような気がした。
 
 目を背けたくなるようなことが、こんなにいっぺんに自分の身に降り掛かってくるなんて、思ってもみなかった。家のこと、父のこと、母のこと、店長のこと、就活のこと…正しい選択ってなんなんだろう。
 私の、泣き出しそうになる気持ちを察してか、川沿いの桜が吹雪いて、あたり一面の景色をピンクにしてくれた。ざぁっと風が吹いて、たくさんの桜が散っていく。中には、既に葉を見せているものもあった。来週いっぱいほどで大好きな景色が終わろうとしている。


 その次の日は、終日リクルートスーツで過ごした。説明会と、選考がふたつ。
 どの会社も、夢とか希望とか自己成長とかきらきらした言葉で自分の会社を紹介してくれる。説明会ではあんなにきらきらしているのに、選考になるといきなり圧迫する雰囲気になるのは、なんでなんだろう。面接官に上から下まで全部見透かされているようで、馬鹿にされているようで、その場に座っている自分が、全然自分じゃないみたいな振る舞いしかできなくなるのだ。
 加えて今日は、昨日から引き続きいろんなことを考えてしまって、面接どころじゃなかった。
 自分はどうしたいんだろう。何を大切に生きていきたいんだろう。
 自問自答するばかりで、面接官の話なんて一切耳に入ってこなかった。一週間待つまでもない結果だと思った。

 
 明確な答えがないままに、ついに片桐家に返事をする約束の3日目になった。
 家にいたら、本当にそのことばかりぐるぐると考えてしまうので、気分転換に買い物でも行こうと出かけた。特にあてもなくふらふらしていたら、優香から着信があった。

「恵芽、今どこ?何してるの?」
「え、今から渋谷で映画でも見ようと思ってるとこ」
「…ねぇ、今日が3日目だよね?」
「あ、うん。覚えてくれてたんだ」
「当たり前じゃん!私がRIHITOと家飲みできるか懸かってるんだから!」
「…あんたほんと…イケメンだったら誰でもいいわけ…」

 底抜けに明るいところが優香のいいところだけど、自分が弱ってるときには自分本位に聞こえてちょっと嫌になる。

「もう電話切るよ…こっちはもう、それどこじゃないんだから…」
「待って!嘘うそ!ごめん!」

 電話の向こうで優香が焦っている様子が伝わった。

「今日の夜、迎えに来るんだよね、その…」
「イケメン秘書とベンツがね…」
「そう!」

 敢えてイケメンを付けて和己さんの紹介をしたら、優香の声が急に大きくなった気がした。

「それまで、いっしょにいてあげるよ。ひとりじゃきっと気が紛れないだろうし」
「…優香、それあんたがイケメン秘書を見たいから言ってんじゃないよね?」
「…!んなわけないない!!ない!」

 いや、この感じ、ある。大ありだな、と思った。

「でもさ、それ今夜って言ってるだけで、別に時間とか指定されたりしてないんでしょ?もし今日そのイケメン秘書が、恵芽のこと見つけられなかったら、返事先伸ばしにできないのかな?もし今日結論が出せなかったとして」
「確かに…」

 和己さんは私の携帯番号と家を知っているだけで、別に私にGPSを付けているわけじゃない。もし今日1日逃げ切れれば、もう1日返事を考えることができる。
 でも、そうしたところで、どうなるんだろう。店長のケースを思い出したけど、今はこのことを考えたくない自分の方が、気持ちの大半を占めていた。私が背中を押したら賛成することに感づいてか、かぶせ気味に優香が電話の向こうで声を弾ませた。

「じゃ、決まり♪私もちょっと遊びたい気分だったんだー」

 そういって電話を切ってから、すぐに私は優香と合流した。
 渋谷から原宿まで気の向くままにウインドウショッピングをして、流行りのコーヒー屋さんで研究のためにラテを飲んで、ベタにクレープを食べて、カラオケで踊り狂って、3軒くらいはしごして飲み食べしていた。ノリで3軒したものの、この飲み方は女子大生のそれではない。分かってはいるけど、何も考えたくなくて、どうしても飲みたい気分だったから、仕方なかった。優香はずっと何も言わずについてきてくれた。気付いたらなぜか、ふたりして酔っ払って、六本木にいた。これだけ気ままに飲み歩いているのだから、きっと大富豪の片桐家がどんな手を使ったって私を見つけられっこない。

「ってかもう1時じゃん。結局迎えに来なかったね、その…」
「和己さんね」

 気付いたら、時計の針は1時を回っていた。

「そそ、その和己さん。作戦成功なんじゃない?!今日これから来ることは考えられないもんね」
「そうだよね、さすがにこの時間はないよね…」

 問題はそのままなのに、どこかホッとしている自分がいた。もうこのまま、どこか誰にも見つからない場所に、旅立ってしまいたいようなそんな気持ちになっていた。

「ねぇ優香、今日ありがとうね」

 改めて、今日1日を思い出して素直な気持ちを言葉にした。

「優香がいてくれたから、久しぶりにこんなに笑った気がする。本当にありがと、付き合ってくれて」

 酔っ払ったら、自分の思考が働かないところで、素直な気持ちがつい口から出てきてしまう。私の言葉を受けて優香は、じっと私の顔を見つめたあと、瞳にあふれんばかりの涙をたたえた。

「恵芽〜〜〜〜〜!!好き〜〜〜〜〜!!!」

 そういうと、優香は躊躇なく私に抱きついてきた。六本木のど真ん中でだ。私も大概だけど、優香もかなり酔っ払っている。六本木の街を歩いている人たちが、抱き合う私たちを横目で見ながらそそくさと通り過ぎるのが視界に入った。
 お酒臭い優香に抱きしめられたら、なんだかほっとして私まで涙が出てきた。涙がほろほろと頬を伝って流れると、何かつっかえたものが溶けていくような気がした。

「優香…ありがとう…」

 もう一度優香にそう言うと、自分が本当に大切にしなくてはいけないものが、なんとなくだけど分かったような気がした。私が私らしくあるために、大切にしなくてはいけないもの…。今までとこれからも、変わらず…。

「優香」

 名前を呼びながら、私は優香と距離を置いた。

「私分かった。やっぱり、あの家には行かない」

 突然腕から開放されて驚いたのか、優香はもともと大きな目をさらに見開いて私の方を見た。

「えっ、行かないって…?」
「うん。やっぱり、突然現れた人が自分のお父さんですって言われても、なんかピンと来なくて…。もちろん、大切な人には変わりはないから、ちょくちょくお見舞いには行ってあげたいと思うけど、その…一緒に住むのは、なんか違うかなって…」

 優香は黙って私の思いを聞いてくれていた。

「私が大切にしてきたお母さんとの思い出を、あの家で守っていきたいなってそう思ったの」
「うん…うん…」

 うなずきながら、優香がぽろぽろと涙をこぼした。その様子がかわいくて、ちょっと笑えた。

「そんなに泣くこと?」
「うん…RIHITOとの家飲みが、これでできなくなっちゃうなって…」
「…!あんたね!」
「嘘だってば!」

 そう言って私たちは笑い合った。泣いたり笑ったり、なんか忙しい。

「なんで優香が家飲みにこだわるかは分からないけど、理人さんがお兄ちゃんだってことは変わらないから、うちに来てもらって飲んだらいいでしょーが」
「確かに!そうだ!恵芽、天才!」
「大げさ」
「でもなんか、RIHITOが友達のお兄ちゃんとか…なんだかいい響きだわ♡」
「…本当におめでたいわよね、優香って」
「ふふふ」

 そんな風に冗談を言い合いながら、私たちは帰宅の途についた。思いっきり遊んで、思いっきり泣いて、思いっきり笑って、優香のおかげですっかり元気が出た。ちゃんと、自分の意志を伝えよう。

 
 タクシーで家の前までついたときには、深夜2時を回る頃だった。だいぶ薄くなったお財布からお金を出したあと辺りを見回したけど、例の黒塗りのベンツはどこにも停まっていなかった。
 よかった…。今日はもう、お迎えに来ないよね。
 ほっとしながらも、さっき固まったばかりの自分の決意を早く言いたかったから、ちょっとだけ残念な気もしていた。車の中から改めて自分の家を見たけど、やっぱり私の居場所はここだからと改めて感じた。私が過ごした、見慣れた景色。ここを大切に守りたいとそう思った。
 お釣りを受け取ってタクシーを降りて、家の前に立ったときに、そこに黒い人影があることに初めて気付いた。誰だろう。自分の家なのに、急に足がすくんで動かなくなってしまった。

「恵芽?」

続きます!